雪ベルが見られないと嘆いていたら天からチケットが降ってきたので本日急遽行ってまいりました(感謝感謝)。やはりトウドレ日程が特にチケ難だったらしいのですが。

が、本日はその話ではなくて。

GWには東京国際フォーラムに行こう!と言う訳で、行ってまいりました。
http://www.t-i-forum.co.jp/lfj/
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭2006。今年のテーマは「モーツァルトと仲間たち」。モーツァルト生誕250周年ということでのテーマ設定らしいです。5/3(水)から5/6(土)の会期中、東京国際フォーラムの5つのホールと相田みつお美術館で朝から晩まで有料コンサート、丸の内界隈の各所では無料演奏、出店や食べ物の屋台もあるまさにモーツァルトまつり。
知人には「モーツァルト好きだっけ?」と言われましたが、確かに私はオペラでももっとぶんちゃかぶんちゃかしたヴェルディ中期が一番好きですが、でも祭りには参加しておくべきでしょう。

私が聞いたのはこの4つ。
チケ取りを全然頑張らなかったので、5000人のホールAと1500人のホールCしか取れませんでした。オペラ(コジ・ファン・トゥッテ)も出来れば見たかったけども。
祭り参加気分でふらふら行ったので、印象評のみです。

5/3(水祝)21:00-21:45 ホールC(サリエリ)
No.145
・モーツァルト モテット「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」
・モーツァルト アダージョ
・ハイドン サルヴェ・レジナ ホ長調
 リチェルカール・コンソート 指揮:フィリップ・ピエルロ

 
夜遅く始まるコンサートなんてヨーロッパみたいじゃん、というミーハー気分で。でも世間には品行方正(?)な人が多いらしく、夜の方がチケットに余裕がありました。
実はホールAのレクイエムを聞くつもりだったのに当日券を買う時に間違えてこっちに(笑)。でも結果論としてホールCでの演奏も聞けて良かった。
水のように染み渡って、体のパーツが正しい場所に戻るような、そんな演奏でした(整体かよ)。非常に主観的な言葉でしかないけれど、Across熱に浮かされたままの心と体に鎮静効果があったというか(苦笑)。
国際フォーラムのホールはどれも空間が広すぎるので、これももっと小さいホールの方がいいんだろうなあと最初は思いましたが、客席が聞くことに集中していたので、すぐに気にならなくなりました。
2曲目はプログラムから変更があったけれど曲名を覚えていられなかったので、アダージョとだけ書いておきます。

5/4(木祝)14:40-15:00 丸ビル1階マルキューブ
・第九
・アヴェ・ヴェルム・コルプス
 丸の内女声合唱団


この日は雪ベル立見に敗れたので丸の内界隈を徘徊しておりました。
回遊型ミニコンサートと言うことで、特にホールではない場所での無料演奏。意外と人が多く、3階の手摺にへばりついて聞いてました。
女声合唱に編曲してあるのだけれど、アヴェ・ヴェルムの方は編曲しても割といい感じではないかと。

5/6(土)20:00-20:30 展示ホール1(ヨーゼフ?世)
・モーツァルト メヌエット ヘ長調
・モーツァルト メヌエット ハ長調
・モーツァルト ビアノ・ソナタ ハ長調
・モーツァルト アダージョ ハ長調
 江口玲

 
展示ホールでの無料コンサート。何らかの有料チケットを持っている人が対象。
私は歌ものが好きなのでこういう機会でもないとわざわざピアノ曲を聴くことは無いのですが、これは良かった。聞いて良かった。
ピアニストの江口氏が演奏とその間のトークを一人で行ったのですが、ピアノ(1887年製スタインウェイの由緒あるものらしい)の逸話や曲の紹介等々、わかりやすく楽しかったです。
演奏も良かったです。特に4曲目のアダージョが。グラスハーモニカのためのアダージョ、と言うことでグラスハーモニカをイメージして弾きます、と言って演奏を始めると、本当にピアノじゃないような音が。繊細で微かで、とても美しくて。音色を聞いているだけでその美しさに泣けた。美しいだけで泣けるって、そういうことがあるんだなあと。
アンコールに「もう皆様モーツァルトはたくさん聞いたと思いますので」と弾いたのは……ピアノには疎いのでわからなかった(苦笑)。聞き覚えるある曲だったんですか。

5/6(土)21:45-22:45 ホールA(アマデウス)
No.416
・モーツァルト レクイエム ニ短調
・アヴェ・ヴェルム・コルプス
 RIAS室内合唱団、ベルリン古楽アカデミー、指揮:トム・カリユステ
 Sop.スンハエ・イム、Alt.カレン・カーギル、Ten.ユッシ・ミュリュス、Bar.コンラッド・ジャーノット


この音楽祭の大トリ。と言っても同じ時間に終るコンサートは3つあるけど。
5000人規模のホールでこれまた演奏には広すぎるのですが、やはり出演者と聴衆の集中力のおかげで、散漫にはならなかったと思います。
で、その演奏に対しては、上手いっていいなあ!と非常にプリミティブな感想を抱いてしまいました。こういう曲はまず上手くてなんぼだよな!(合唱曲はアマチュアで聴くことが圧倒的に多かった元素人合唱団員)いや本当に良かったです。
ひとつ気づいたのが、我々が普段歌うときの発音と違う点。「perpetua」が「ペルペトゥア(と今まで習った)」でなく「ペルピトゥア」に近い感じに聞こえました。
ソリストではスンハエ・イムがとても清らかなリリックソプラノで天使の声でした。容姿も一人だけ小柄で可愛らしかった(一人だけ東洋人だからね)。あとテノールのユッシ・ミュリュス、プログラムに「ダンサーとしても活躍」と書いてあってなんじゃそりゃと思ったのですが、長身の格好よさげなお兄ちゃんでした。声もいい。ちなみに4人とも70年代生まれの若い歌手。
ディレクター・マルタン氏の提案として、この音楽祭を締めくくるコンサートのアンコールにはモーツァルト最晩年の作品、フリーメーソンのための小カンタータから。これも知らないんでちゃんと曲名覚えてないんですが、素朴な美しさの合唱曲でした。やっぱり聞いてて涙が出た……。(年寄りは涙もろくなっていけない)

演奏会前後には屋台(バラエティに富んだ屋台が10軒以上出ている。一風変わったエスニックフードなんかもあり)で腹ごしらえできるし、お祭りとしても楽しかったです。でも昼はちょっと人が多くて疲れた。夜くらいがちょうど良かったなあ。(やっぱり年寄り)
あ、モーツァルト市場のグッズは終了間際でも安くなりませんでした。期待したのに(せこい)。

ちなみに来年のテーマは「国民楽派の作曲家達」だそうで。
モーツァルトほどキャッチーじゃないかもしれないけど、じゃんじゃかじゃんじゃか賑やかそうで、楽しみです(結局そういうのが好きなのか)。
……ヤナーチェクの『マクロプロス事件』やってくんないかな。

***

5/30追記。
江口玲氏のアンコール曲はシューマンの「子供の情景」から「トロイメライ」だそうです。通りすがりの親切な方に教えていただきました。私も何の予備知識もなく(同じく名前から女性だと思っていました)聞きましたが、良かったですよね。こういう、普段なら聞かない演奏に出会えるのが音楽祭の醍醐味ですよね。
二期会『ラ・ボエーム』観て参りました。
指揮・ロベルト・リッツィ・ブリニョーリ、演出・鵜山仁。管弦楽・東京フィルハーモニー交響楽団。

ポエームを観るのは久しぶり。久しぶりに観たら、楽しいシーンは楽しくて楽しくて、悲しいシーンは泣けて仕方がなかった。
好きなオペラではあるけれど特別に大好きな訳ではないと思っていたので、正直意外だった。

年を取ったせいかなあ。
ポエームの主人公達は皆それぞれに芸術家志望でその日の食費にも事欠いているが、仲間がいればそれでも楽しい貧乏暮らし。でも、だからって家賃を取りに来た大家を追い出したりするのは倫理的にどうなの、とか。仲間の恋人を愛人にしているイヤな爺さんとは言え騙くらかして付けを払わせるのはひどいなあ、とか。そんな若さと貧乏ゆえ何をしても許されると思っていそうな青春の暴走を時に覚めた目で見ていたりしたんだが。今回、何だかもうそれすら楽しそうでいいか、と見えてしまった。
自分が若くなくなったからかなあ。若くなくなって青春と呼ばれるものがはるか遠くに過ぎ去ってしまったから、その若さの暴力(と言うには可愛いもんだけど)も微笑ましく見えるのかもしれない。
主人公たちロドルフォとミミの恋も、貧乏な詩人とお針子が出会って恋に落ちたが貧しさゆえに別れ、再会したが彼女の病は重く彼の部屋で息を引取る、と言うべったべたなお約束の物語なのだけれど。今だから、その感傷の甘さを面映く思いつつ、美しいフィクションとして受け止めて心が洗われるように泣けるのかもしれない。

あと、出演者が比較的若手の歌手で、出演者も演出家も日本人であるということも、いつも以上に受け入れやすかった理由のひとつかもしれない。我々日本人の観客にとってより自然で魅力的な若者像を描き出せるのだと思う。演出と歌手の演技と両方の成果なのだと思うが、きめ細かく繊細な動きや仕草が心に残った。
私にとって特に印象深かったのは、4幕で瀕死のミミを前に、皆それぞれできることをしよう、とコッリーネがショナールに言うところ。俺に出来ることなんか無い、と言うように首を振るショナールに、コッリーネが彼の肩を叩いて、二人きりにしてあげよう、と言う。ショナールはそうか、と顔を上げて部屋を見回し、出かける言い訳になるものを探し、水の入った瓶を手に取り、いつものようにおどけた様子を装ってそれをロドルフォに示し、部屋を出て行く。
その自然な感じ。それが、この物語を素直に受け止める手助けをしてくれる。

演出は基本的に奇を衒わず、衣装もセットもオーソドックスなもの。
1幕、4幕の仲間達の部屋は家具等は普通だが、やや狭いのかな。4幕の食事をしたりふざけあう場面では、その度に慌しく片付けて場所を空ける様子が、狭いところに工夫して4人暮らしているんだなあと思わせられる。部屋は孤島のように舞台中央に浮かび、背景に時間の推移をあらわすように街明かりが映し出される。そして最後は夕映えのように赤く明るい。
2幕のカルチェ・ラタンも超豪華とは行かないものの、クリスマスの賑わいに十分な華やかさがあった。3幕の街外れも雪の風景がシンプルで美しかった。

激しさよりも甘い感傷が心に沁みる繊細な舞台。オーソドックスな舞台装置や衣装の上で、現代に通じる感覚の演技を見せた、いい上演だったと思う。

以下、キャストについて。

ミミ=木下美穂子
清らかで張りのある美声で、ミミのイメージにぴったりの歌だった。後半に行くにつれてどんどん良くなって、3幕のロドルフォとの別れ、4幕の再会の二重唱はとても良くて、泣けた。

ムゼッタ=安藤赴美子
こちらも堂々たるもの。2幕の歌は迫力で良かったけれど、べノアを振り回しマルチェッロを陥落させるコケットリーはちょっと物足りない気も。4幕の実は真面目で心優しい面は良かった。

と、どちらかと言うと女声陣の方が聞かせてくれたけれど、男声陣ももちろん良かった。

ロドルフォ=山田精一
この人が主役だというので観に来ました。とてもとても甘いけれど甘ったるくはない繊細な美声で、とにかく好きな声。
でも、このホールには若干線が細すぎたかなあ。もう少し小さい空間で聞いてみたい人かも。あと高音になるとちょっと弱いのが気になった。
でも、3幕4幕はその声の若さ(=甘さと細さ)がロドルフォそのもののようで引き込まれました。ミミとロドルフォ、二人とも本当にこの繊細な物語の恋人達にふさわしい美しい声で、良かった。
まだ若手で今回が二期会本公演デビューだそうなので、これからを楽しみに聞き続けたいと思います。
しかし、この方かなり太った気が。オペラ歌手は容姿は二の次とは言え、体型まで伝統的なイタリアンテノール並みにならなくてもと言う気はします(失礼!)。

マルチェッロ=成田博之
この人も割と好みの声。歌、演技とも安定した感じで、安心して観ていられた。

その他、ショナール=萩原潤、コッリーネ=黒木純、それぞれ良かったです。ショナールは1幕で賑やかし的な出方をするんですが、その演技が軽妙で楽しかった。コッリーネは「外套の歌」いい声で聞かせてくれました。
あとこれは個人的な好みですが、コッリーネはぼーっとした感じで長身、ショナールは割と小柄で機敏というイメージがあるので、今回はそのイメージどおりで、楽しかったです(笑)。

やや不満があるとしたら、やはりホールのせいもあるんだろうなあと。今回3階後方席のせいかいまひとつ声が届いていないようなもどかしさが。オーチャードでは私は割とそういう感想を抱きがちなのですが、まあ仕方ないのかなあ。
あとこれはどうでもいいことですが何故二期会の公演のプログラムはいつも微妙に内輪っぽいんだろうか。別に色々なジャンルの人による紹介文でなく、普通のキャスト紹介だけでいいのに、と少し思いました。

***

演出と歌手にしか言及してなくてすみません。その程度の素人の感想と思ってください。(と、たまたま検索で来てしまった方向けにお断り)
ジョルダーノ『アンドレア・シェニエ』新国初日。
指揮:ミゲル・ゴメス=マルティネス、演出・美術・照明:フィリップ・アルロー
合唱:新国立劇場合唱団、管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団。

こんな恐ろしい『アンドレア・シェニエ』は初めて見た。
今まで藤原歌劇団2回、ボローニャで1回見ただけですが、フランス革命を背景にした怒濤の恋愛ドラマ、というイメージは覆されました。革命は背景ではなく全てを飲み込む魔物。そしてその魔物を生んだのは人間。
群集の愚かしさ、凶暴さが全面に押し出され、その負のパワーに消耗しました。3幕終わり辺りで気分が悪くなりかけたほど。
『シェニエ』にこれほど消耗させられるとは。休憩込みで3時間に満たないのに。やられた、と言う気分です。
でも、この演出は決して嫌いではないです。時代を移す等の奇を衒ったことはしていないのに、今までと違うものを見せてくれた。そしてとにかく世界に没入させられ、翻弄された。面白かった。見てよかったです。

舞台は通常の上演よりも殺戮に満ちている。
1幕、ジェラールがつれてきた民衆が乱入し舞踏会が中断する。彼ら追い出して音楽が再開するが、それは既に貴族社会の落日を感じさせるものでしかない、と言うのが通常。しかしこのアルロー演出では民衆は去らない。優雅なガヴォットの響きの中、鎌や鍬を持った農民や使用人が貴族を虐殺し始める。
その光景を覆い隠すのは幕ではなくパネルのような壁で。切り取られた画面の斜めの線がギロチンのようだと思っていたら、壁がスクリーンになり映し出されたのは正にギロチンの図解。ギロチンはたゆまず動き続け、1台が2台、2台が4台、4台が8台と無限に増殖していく。響き続ける太鼓の音。
2幕では革命は完全に堕落している。密偵が跋扈し人々は互いに監視し、そんな社会に倦んで誰彼構わず処刑を見世物にして歓喜する。マッダレーナとシェニエを引き合わせようと尽くしたベルシはあっさり密偵に殺され。傷を負ったジェラールが犯人がわからないと言うと民衆が「ジロンド党だ!」と決め付けるのは楽譜どおりだが、この舞台ではそれだけでなく民衆がジロンド党員と思しき人々を囲み銃殺する。
3幕も暗澹たる光景が続く。ジェラールの演説は人々の愛国心を動かし寄付が集まるはずが、ここでは人々は冷笑を続け、銃を向けられて仕方なくあまり価値のないものを募金箱に投げ入れる。国のためと孫を差し出す盲目の老婆マデロンの感動的なアリアも、聴くのはジェラールだけ。腕を貸しておくれ、というマデロンに答える者はなく、彼女は一人墓場をさまよう。
そして3幕最後。シェニエの弁明もジェラールの弁護も民衆から拒絶されるのは同じだが、裁判の後傍聴席の中でも血なまぐさい争いが起こる。
4幕は、本来のとおりに進む。シェニエとマッダレーナが共に死ぬことによって愛の勝利を歌い上げる。しかし最後。手を取り合う二人の背後に現れる、今まで登場した全ての人々。
彼らは皆、三色旗の目隠しをしている。
そして二人の名を呼ぶ声はマイクを通した声だ。現代のように。
二人は答える。二人を含め全ての人々はその場に倒れる。
光が戻ると、倒れ伏した大人たちの中で4人の子供だけが立っている。子供たちは目隠しを取り、手を取り合って光に向かって旗を振る。

若干、やりすぎのきらいはあるかと思います。ベルシ殺すのかと愕然としたし、最後の三色旗の目隠しもそこまでやるかと思いました。
でも、世界が悪意と愚かさに満ちているからこそ、シェニエの真っ直ぐな清廉さ、マッダレーナの一途な愛、ジェラールの人間的な迷いが際立つ。
何故マッダレーナがシェニエとの愛に死ぬと決めたか、何故ジェラールが説得されたか、今回初めて実感を伴って理解できたような気がする。

美術もどこか抽象的でキッチュな悪夢。センスいい。
アルローは去年の『ホフマン物語』も面白かったけれど『シェニエ』でも色々見せてくれました。奇抜な演出はあまり好きではないのですが、これは許容範囲。と言うかありです。フランス人だそうなので、フランス革命にはこだわりがあるのだろうと感じさせられました。

以下個別に。

シェニエ=カール・タナー。
悪くは無いけれど、ちょっと弱かった。マッダレーナのルカーチが良かったのと、革命の悲惨さが強調された演出でその渦中の人ジェラールのドラマが際立ったために、シェニエの影が薄くなった感が。
元々シェニエは物語中あまり何もしていない(オペラの主役にはありがち)ので、圧倒的な歌唱で持っていく必要があると思うんですが、それには足りなかった。ラストの二重唱でもマッダレーナに負け気味でした。

マッダレーナ=ゲオルギーナ・ルカーチ。
今までにもこの人観たはずなんですが、こんなに美人でしたっけ? 1幕のおきゃんで無邪気な伯爵令嬢ぶりが可愛いし、没落の後も美しい。歌も素晴らしく綺麗な声でドラマティックな歌唱。特に3幕のジェラールとのやり取りとアリア、4幕の愛のため共に死ぬとシェニエに告げる場面。訴える力がありました。マッダレーナが主役でもいいくらいだった。

ジェラール=セルゲイ・レイフェルクス。
良かった。1幕最初のアリアは正直ピンと来なかったんですが、進むにつれどんどん良くなってきました。
また、この演出は革命が当初の理想を失って迷走するさまが露骨に描かれているので、その只中にいるジェラールの苦悩がすごく重く映る。3幕は殆どジェラール主人公で見てしまいました。アリア『祖国の敵』も、いつもなら彼個人の私欲と理想の板ばさみの歌なのに、革命そのものの腐敗と理想との乖離を苦しんでいるようにも見えて。可哀想にすら見えた。
元々、ジェラールというキャラクタ自体好きなんですよ。伯爵家の従僕として生まれたが本を読み学び革命の立役者となり、しかし主家のマッダレーナお嬢様にずっと恋していて。彼女を手に入れたくて権力を悪用するけれど、彼女のシェニエへの深い愛と毅然とした態度に動かされ良心を取り戻し恋敵を救おうとする。最後は最愛の女性が恋敵と共に死ぬ手助けをする男。
同じように女を手に入れようとその恋人を嵌める男でも、徹底的に色悪のスカルピア(トスカ)の方がどうも世間の女性には人気があるようですが、私は断然ジェラールの方がいいです。マッダレーナにはジェラールが伯爵家への復讐のために自分を探していたと思われていたんだろうなあ。可哀想に。また彼が革命に身を投じるのはシェニエの詩を聞いた直後だから、シェニエに対しても尊敬の念を抱いていたろうに。
等と考えるととても興味深いキャラです。ついでに彼もそう遠からず粛清されたと思います。だって、シェニエを告発しといてその後で彼を救おうと奔走するなんて、信用失くすだろう。その辺の不器用さ間抜けさも好きだ。

その他も皆良かったです。特にルーシェ=青戸知、いい声だったし、シェニエの友人としていい味出してました。密偵=大野光彦は歌はもうちょいと思ったけれど、胡散臭さが良かった。修道院長=加茂下稔も馬鹿っぽくてナイス。フーキエ=小林由樹はシェニエ、ジェラール相手に遜色なくやり合える張りのあるいい声でした。コワニー夫人=出来田美智子もなかなか迫力の美声で貫禄あり。ベルシ=坂本朱は2幕頭の蓮っ葉な演技が流石カルメン役者。
オケ、指揮も良かったと。ここぞと言うところでの盛り上がりは圧巻。
ヴェルディ『スティッフェリオ』観て参りました。
観たのは10/23。日本初演ということで、この作品自体初見。
指揮:若杉弘、演出:鈴木敬介、装置:イタロ・グラッシ、衣裳:スティーヴ・アルメリーギ。
合唱:びわ湖ホール声楽アンサンブル、東京オペラシンガーズ。管弦楽:京都市交響楽団。

すごいものを観ました。登場人物の苦悩と葛藤に魂を揺さぶられる迫力のドラマ。
牧師の妻の不倫話なんて地味な話かと思った私が愚かでした。ヴェルディ先生に失礼。
最大のドラマはいつも、人の心の中に。

マイナーなオペラなのであらすじ。

【1幕】
19世紀初頭ドイツ。布教の旅から戻った牧師スティッフェリオ。が、妻リーナの浮気の疑いが。取り合わないスティッフェリオだが、リーナが結婚指輪をしていないことに気づく。追求するスティッフェリオをリーナの父スタンカーが止める。リーナの不倫相手はラッファエーレ。スタンカーはそれを娘婿に隠して自分で決着をつけようとしていた。
帰還を祝う信徒達が集まる中、嫉妬と疑惑に己を抑えきれないスティッフェリオ。騒然となる信徒達。
【2幕】
教会の墓地。後悔しているリーナにラッファエーレが駆け落ちを持ちかける。拒絶するリーナ。スタンカーが現れラッファエーレに決闘を申し込む。のらりくらり逃れようとするラッファエーレだが、生まれを侮辱され剣を抜く。そこへスティッフェリオが現れて牧師として決闘を止めるが、ラッファエーレが妻の相手と知ってしまい、怒りを爆発させる。しかし年長の牧師ヨルグが聖職者としての勤めを説いて彼を止める。スティッフェリオは苦悩のあまりその場に崩れ落ちる。
【3幕】
ラッファエーレに逃げられ汚名をそそぐことができなくなったスタンカーは自殺しようとするが、ラッファエーレが見つかったと聞いて歓喜する。スティッフェリオはラッファエーレに、リーナが自由になったらどうするかと聞き、隣室で待たせる。
スティッフェリオはリーナに離婚届を渡す。リーナは驚き拒否するが、彼女の言葉に耳を貸そうとしない夫に、ついに自分も署名する。しかし、夫としてではなく牧師として私の訴えを聞いてくれ、と懇願し、スティッフェリオへの愛を告げる。ラッファエーレは逃げ出すが、スタンカーに殺される。
教会。惑乱しているスティッフェリオはそれでも牧師として信徒達に説教をしなければならない。教会にはリーナとスタンカーの姿も。聖書を開いたスティッフェリオはその頁を読み上げる。姦婦を許したキリストの説話。「彼女は赦された」と繰り返すスティッフェリオ。

重い話です。
が、どろどろしないのは、主要人物=スティッフェリオ、リーナ、スタンカーの真面目さゆえだと思います。
義務を重んじ、名誉を重んじ、相手を誠実に愛する真っ当な人たち。真面目で真摯であればこそその苦悩も深い。いい加減な人間であればそれほどに悩まないだろうに。

家柄を重んじ、娘をそして娘婿を誇りに思っていた元軍人のスタンカー。
それゆえラッファエーレへの怒りは激しく憎しみは深く、娘リーナに対しても絶望を隠さない。それでも自害を覚悟したアリアでは娘への愛を吐露せずにはいられない。名誉を重んじる彼にとっては娘は赦すべからざる存在であるはずなのに。

夫を愛しているのに過ちを犯してしまったリーナ。
まさしく、彼女にとってラッファエーレとのことは過ちに過ぎなかったのだろう。が、それは恐らく彼女が寂しかったから。立派な牧師として認められしばしば長い布教の旅に出る夫との生活は、彼女にとって時に寂しいものだった。でも、彼にふさわしい立派な妻であろうとした彼女には言えなかった。最後の最後、夫と妻でなくなって初めて、彼女は本心を吐露する。私はあなたを愛していたのに、それを知っていてくれていたのかと。

そして、スティッフェリオ。
神に仕え信徒を導く者としての責務と、自分を裏切った妻とその相手への怒りという個人的感情の間で葛藤し苦悩する。恐らくはその妥協点として、妻をこれ以上責めず離婚して自由にする、そのかわり目の前から消えろ、という解決策を選んだのだと思う。しかし、その妻に本心をぶつけられ、彼女の心を理解していなかったことを思い知り、呆然とする。

そして彼は、半ば自失したまま開いた聖書に赦しの言葉を見る。

正直な感想を述べると。スティッフェリオは牧師としてリーナを許したけれど、夫として妻を赦したかどうかは微妙に見えました。
今回の演出では、最後「その女は赦された」と繰り返すスティッフェリオに、感極まった様子のリーナが手を伸ばすけれど。
二人の手が触れ合うことはなかったので。

2幕の最後も、苦悩に耐え切れず崩れ落ちるスティッフェリオに、リーナは手を差し伸べるけれど、触れられない。苦悩する彼をいたわりたいのに、罪を犯し苦悩の元凶である自分にはできない。そのリーナの苦悩。
そして3幕最後もまだ、二人は触れ合うことができない。
もちろん、いつか赦しあう日が来るかもしれない、とは思うけれど。

真面目で誠実に人生に向き合う人々。
その真面目さの裏打ちは倫理。倫理と個人的感情の狭間で葛藤し苦悩する。オペラに良くある、個人的感情のままに突っ走る恋愛物語ではない、ある意味抑制された大人の物語。
そしてその倫理の根拠に、神の存在がある。神の存在が彼らの倫理を支えている。
だから、苦悩の果てに神の啓示がある。それだけ悩んだことへの報いとして。逆に言うと、たまたま開いた聖書の頁を神の言葉と受け取ることができるのは、それだけ悩んだ後だからかもしれない。

神様がいる世界って、どんな感じなんだろう。
私はごく一般的な日本人で、そういう神を実感することが無いので、そう思う。
もっとも、イタリア人であるヴェルディがドイツのプロテスタントの牧師が主人公のこの作品を作ったのは、カトリック下の退廃を憂えたからではないか、と演出の鈴木氏は推測している(プログラムより)。もしかしたら19世紀人ヴェルディにとっても、神の存在を意識し誠実に苦悩するこのオペラの世界は、身近に存在しないファンタジーだったのかもしれない。

ヴェルディの音楽は、圧巻でした。
各幕の幕切れ、それぞれの激しい感情を表現する表現力、緊迫感。
3幕とも、オテロの2幕や椿姫の2幕の最後に比肩するような盛り上がり、圧倒的な力を見せる。
もちろん、それは演奏したソリスト、合唱、オーケストラ、指揮の若杉氏の成果でもあるのだろう。拍手。

セットは簡潔で写実的で美しかった。衣装は重厚。やや重々しすぎる印象も受けましたが、それもこの話には合っていた。

歌手陣も皆素晴らしかったです。
特に、スティッフェリオ=中鉢聡。
この人最初ヴィジュアル系で売り出してましたが、本領は熱くて濃くてくどい歌唱と演技ですよね? 本当に気絶してしまうんじゃないかと思うほどの苦悩ぶりだった。本来この役はもう少し年長の設定かもしれませんが、でも役に入りきっている感じに持っていかれました。中音域は申し分なく張りも迫力もあるのに対して、高音域がちょっと物足りなかったかな。
暑苦しさはラテン系のテノールにも負けていない人なので、これからもイタリアものでどんどん聞いてみたいです。
リーナ=横山恵子も、大人の複雑なヒロインを好演。
スタンカー=折江忠道も元軍人ゆえのある意味融通のきかなさが出ていました。
あと、ヨルグ=田島達也、いい声でした。
マイ・フェイバリット・オペラのひとつ、『イル・トロヴァトーレ』見て参りました。
新宿区民オペラは、合唱はアマチュア、指揮者、ソリストはプロ。その分チケットはリーズナブルなお値段、という、よくある市民オペラの形態。今回で第11回公演だそうな。
指揮:神田慶一、演出:園江治。

結果、やはり合唱が弱いかなあと。
いまいちテンポがもっさりしていて、ヴェルディの、『イル・トロヴァトーレ』の血沸き肉踊る怒濤の盛り上がりに欠けました。
もしかしたら指揮のせいもあるのかもしれないけれど。でも、ソリストだけになる4幕はぐわーっと来たからなあ。
いや、私自身アマチュアで歌う人間なんで、こういうことを言うのは天に唾することなんですけどね。それに、価格と敷居を低くしてオペラ上演の機会を増やすと言うことは十分意義あることだと思うし。ただ、公演のクオリティとしてはね……。
これは私が出ているときもいつも感じるジレンマなのですが(でも出たい)。

話がそれました。
演出・舞台は、(おそらく)予算や稽古の制約の中、シンプルで美しいものが作られていました。
基本的に、雛壇が並べられて合唱はそこに配されて。照明で場所の変化を表現。背景に一部切り取られた星空が見え、それが場面ごとに形を変える。
最後のレオノーラの死からマンリーコの処刑、アズチェーナの告白と呆然とするルーナの急転直下の展開と同時に、真っ暗だった背景にあっという間に夜空が広がっていくさまには、鳥肌が立った。勿論、歌手の熱演の力もあって。
ここ、マンリーコが舞台上で処刑されるのが、よりテンションを高めていた。そういえばこういう演出は初めて見た。いつもマンリーコの死は舞台の外だ。もともとのト書きにそう書いてあるのかな。
演出でもうひとつ新鮮だったのは、「見よ、恐ろしい炎を」の場面。「あなたの恋人である前に私は彼女の息子」と、ちゃんとレオノーラに告げているんですよ。テノールの聞かせどころというだけでなくて、ちゃんとドラマとして成立させている。(歌が始まると同時にレオノーラが急いではける演出があって、あれは興ざめした。METのビデオだったかな)

キャストごとに、独断と偏見で。

マンリーコ=山田精一
実はこの人の声が好きなんですよ。甘く明るいテノールで、好きなタイプです。
今回のマンリーコもとても良かった。どちらかと言うと切々とした曲の方が特に。3幕のレオノーラとの結婚を誓う二重唱や、4幕のアズチェーナをなだめて歌いかける牢獄の場面。(にしても3幕はこんなときに「私が死んだら」なんてひどいことを言うなあ、と思う。それが切なさや悲劇への予感をかきたてるのは確かなんですけどね)
しかし、最大の聞かせどころ「見よ、恐ろしい炎を」がいまいち決まらなかったのは惜しかった。失敗ははしていないけれど、決まらなかったよね……好きなだけに残念。
山田さんは来年の二期会『ラ・ボエーム』ロドルフォ役が決まっているそうです(拍手)。見に行きますとも。

レオノーラ=日隈典子
ヒロイン然とした存在感。説得力あります。
高音がやや弱いかなと言う気もしたけれど、中低音域は綺麗な声でしっかりくっきりとして、意志の強そうな感じでレオノーラには合っていたのではないかと。

ルーナ=今井俊輔
人間くさい感じのルーナ伯でした。端正な二枚目系のバリトンで、私はルーナはこのくらいの感じが好きです。

アズチェーナ=杉野麻美
これも私の好みの問題ではありますが、いまひとつアズチェーナに合っていない気がしました。線が細すぎるのかな。メゾでも、もうちよっとヒロイン系の役の方が似合いそうな。

フェルランド=金子宏
良かった、つーか好み。明るく軽やかで良く響くバスで、幕開きの昔語りのソロも聞きほれました。

今回はサトリちゃん誘ったら付き合ってくれました。
が、終って一言。
「これはオペラとしていいんですか!?」
ええっ、ナシですかこれ?
そ、そりゃ確かに、初演当時から話が荒唐無稽だとか時代考証がおかしいとか言われたらしいけど(吟遊詩人がこんな風に活躍した時代には、まだジプシーはいないらしい)。
でもいかにもイタリアオペラらしい、ヴェルディらしいオペラで私は大好きなんだけど。
音楽は勿論、「お前らちょっと落ち着け」と言いたくなるような思い込みの激しい登場人物の繰り広げる怒濤のドラマが。
でも、やはり現代人の目から見ると厳しいのか……。
藤原の『アドリアーナ・ルクヴルール』観て参りました。

ロビーに入って、まず、ショックなことが。
主役の二人、ダニエラ・デッシーとブァビオ・アルミリアートが身内の不幸のため休演、代役と発表されておりました。
木曜発売のぴあには既に出ていてので、ちょっと前にはわかっていたようですが。でもプログラムは間に合わなくて挟み込みになっていました。

ファビオには去年の2月にボローニャでも振られてるんだよなー。やはりデッシーと共演のはずだったアンドレア・シェニエ、目の前で病気休演の紙が貼られた……。
縁が無いのかなー、好きなんだけどなー(泣)。
(ちなみにその旅ではトリエステでも中島康晴が休演と、テノールには振られっぱなしでした。とほほ)

ちなみに変更後のキャストはヴェロニカ・ヴィッラロエルとマルチェッロ・ジョルダー二。代役でこのクラスを呼べるのが藤原の偉いところだと常々思っております。

さて、気を取り直して『アドリアーナ・ルクヴルール』。
きらきらした甘い、甘ったるい音楽とベタベタなストーリー展開の怒涛のメロドラマ(褒めてます)。
大好きなオペラです。

幕が開いて、かなりクラシカルな装置と衣装に少々驚く。藤原は比較的正統派の演出が多いけれど、今回は特に、と思ったら、1966年ローマ歌劇場の歴史的演出なのだそうな。アドリアーナというオペラには合っていると思う。セットや衣装、小道具も本物らしい重厚感に溢れていて、すごく素敵。
演出はマウロ・ボロニーニ。
指揮は菊池彦典、オーケストラは東京交響楽団。

以下、役ごとに。

アドリアーナ=ヴェロニカ・ヴィッラロエル
やっぱりデッシーを期待した分ちょっと……。
1幕の登場のアリアが、いまひとつ安定感や表現力、つまりは魅力に欠けた気がします。4幕のアリアもいまいち。
でも、朗誦やドラマ部分は良かった。特に2幕のブイヨン公妃との激しいやりとりと、3幕の朗誦! 朗誦の後の「復讐してやったわ!」も迫力。
あと言ってはなんですが、ちょっと顔も恐いかも、ヴィッラロエル(失礼な!)

マウリッツィオ=マルチェッロ・ジョルダー二
いかにもイタリアンテノール。カーンと高音を出したときの突き抜け方はやっぱり気持ちいいなあと。粗もありそうなんだが張り上げたときの勢いと輝かしさで、ま、いいかという気分に。その辺マウリッツィオという役にも合っている気がする(笑)。
思えば、このオペラを初めて見たのはボローニャ歌劇場の来日公演。アドリアーナ=フレーニとブイヨン公妃=コッソットの迫力対決に頭がぐらんぐらんして、マウリッツィオの印象が殆どありませんでした。
が、今回。
マウリッツィオって、とんでもねー奴だな(呆笑)。格好のよさと甘い言葉だけが取得の、調子のいいのーてんきな男。でもどこか憎めない。
それはやはり、ジョルダーニの持ち味なのではないかと。
……もしかしたらボローニャのときはドヴォルスキーだったので、もうちょっと誠実そうに見えたのかもしれない。

あ、ラテン系二人のラヴシーンはやたらと濃かったです。日本人ではこうはならないだろう(笑)。

ブイヨン公妃=エレーナ・カッシアン
多分この人を聞くのは初めて……と思ったがスカラ座来日公演のリゴレットでマッダレーナをやっているそうなので、初めてではないかもしれない。
まだ若そう。でも迫力。2幕登場のアリアもがーっと勢いでドラマチックに歌いきる。もうちょっと声が太くなるともっと貫禄や幅が出てくるかも。

ミショネ=堀内康雄
最初に見て、随分年寄り臭いミショネだなあと。これも、初めて見たボローニャのアンジェリスがナイスミドルだったから思ってしまうことかも。三つ子の魂百まで。
しかし、その野暮ったさがしみじみと切なかったです。叶わぬ恋を断念して、父親のような愛でアドリアーナの側にいるのが沁みました。
歌も幕開きはちょっとかき消されぎみてもどかしく感じたけれど、ここぞというところは外さず、深い声で聞かせてくれました。今まで割と堀内康雄の声や歌い方は苦手だったのだけれど、二枚目よりこういう役の方がはまるのかも。

ブイヨン公爵=久保田真澄、シャズイユ修道院長=持木弘
二人でごちゃごちゃ芝居して、いい味出してました。
ブイヨン公は尊大かつ俗物な感じが良く出ていたなあと。
修道院長もあっちにへつらいこっちにおべっかぶりが面白かった。持木さん、すっかりこういう路線になっちゃったのかなあ(去年のイル・カンピエッロといい)。もう二枚目はやらないのかしら。

今回、友人が急に行けなくなり、ドリーさんにお付き合いいただきました。
オペラは初めてに近いということでしたが、楽しんでいただけたようで何より。特に火花散る女同士の争いや怒濤のストーリーにはウケてくれました。ラストの展開は「こだまっちか齋藤か!(どちらも宝塚が誇るトンデモ劇作家)」とお褒めいただきました(いや褒めてないから)。うん、確かに、これで死ぬのか!?ってのは、わかる。
まあ私は多少のトンデモ展開は、特に古典劇の場合は「あー、現代人には思いつかないなー、すげー」と素直に楽しむことにしているので。このオペラの場合、2幕3幕の恋敵同士の対立と緊迫感溢れる探りあいから一気呵成のカタストロフィの盛り上がりが快感なので、好きです。あとやっぱり音楽の力かな。あの繊細な甘さは癖になる。

終演後に「面白かった、オペラって難しくないんだ」と言われて、改めて「オペラは難しい」というイメージがあるんだなあと気づきました。そうそう、殆どが色恋の話なんだしさ。
と言う訳で、キムシンだけでなく他の演出家諸氏も、ラヴストーリーのネタとしてオペラを使ってくれてもいいのにな、と思ったりしました。
(つーか、ワタ檀瞳子で『仮面舞踏会』が見たかった。叶わぬ夢だったけど)
サマーオペラモーツァルトシリーズ『コジ・ファン・トゥッテ』観て参りました。
去年の『ドン・ジョヴァンニ』がなかなか良かったので。

見終わった感想。
『コジ』って、後味の悪いオペラだなあ!

いや、何を今更って話なんですけど。
でもあれで「こんな事態にも笑えるのが幸せな人。レッツポジティヴシンキング」ってオチはどうなんだと。外からやってきた不幸じゃなくて自分たちが馬鹿な真似して引き起こした問題に対してそれでいいのか。何か間違ってないか?
勿論、名作に対して野暮は承知で言っております。そういや私『ドン・ジョヴァンニ』の「悪党は滅びた」とか『ファルスタッフ』の「世界は劇場、人生は芝居(記憶で書いているので違うかも)」とか、オチに釈然としないことはままあるんだよなー。西欧人の発想には時々ついていけません(そういう問題?)。

『コジ』は3回目です。
思えば、初見はメトロポリタンオペラ。キュートで美しくお洒落な舞台を愛で、2回目は新国立劇場のフィオルディリージとフェルランドが結ばれるというハッピーエンド要素に納得し、このフィナーレの受け止め方が違ったのかもしれない。
今まで見た中で一番「むきだしの」コジ・ファン・トゥッテと言う感じがした。

舞台の出来は良かったです。素晴らしかったと言ってもいいです。
あまり広くないホールもこのオペラには合っていたのではないかと。歌手の声が伸びやかに響いて、気持ち良かった。
特にテノールの清原邦仁の声が好みでした。久々の私的ヒット。この声で口説かれたらそりゃ落ちるって!
バリトンの青木耕平も良かったです。ビジュアル的に格好よかったし。アリアで客席降りして軽やかな動きにびっくりしました。

しかし圧巻だったのはデスピーナの櫻井裕子。これほどお嬢様二人と身分が違うことがありありとわかるデスピーナって、すげー。もうお育ちが違うから、って感じ。そしてその胸の谷間とそれを強調する衣装がまたすごい。日本人では珍しくないですか?
とにかくパワフルで舞台狭しと暴れまわって、迫力でした。あんだけ走ってよくちゃんと歌えている。

演出は、名前?が一面に書かれた青いビニールシートとか、大きな翼の彫刻とか、『ドン・ジョヴァンニ』と同じものが使われていましたが、ちょっと意味わからず。あとドン・アルフォンソがしきりとメモを取っていた意味もよくわからず。レポレロのノートとつながってるとか?
基本的には奇をてらったことはせず、良かったと思います。(だから「むきだし」と言う印象になったんだと思う)
但し、字幕で「人間は皆こうしたもの」と出してしまうのはどうかと。そりゃテーマとしてはそれで正しいかもしれないけれど、歌詞は「Cosi fan tutte」なんだから、字幕でそれを変えてしまう=解釈を押し付けるのは問題じゃないかな。
フェルランドとグリエルモ、フィオルディリージとドラベッラ、貞節であるときは二人全く同じ衣装で見分けがつかなくし、浮気(女たちは本気になるんだけど)するときは個性がわかる違う衣装って、その方が本来でしょうと言う意味にとれました。そのあたり面白かった。

気が向いたらまた追記します。
3/21初日行って参りました。

私にとっては演出が気になるオペラ。
演出と言うより、解釈だな。さて今回は。

フィオルディリージ : ヴェロニク・ジャンス
ドラベッラ : ナンシー・ファビオラ・エッレラ
デスピーナ : 中嶋 彰子
フェルランド : グレゴリー・トゥレイ
グリエルモ : ルドルフ・ローゼン
ドン・アルフォンソ : ベルント・ヴァイクル

指揮 : ダン・エッティンガー
演出 : コルネリア・レプシュレーガー
美術・衣裳 : ダヴィデ・ピッツィゴーニ

コジ・ファン・トゥッテ。日本語訳は「女はみんなこうしたもの」。

ストーリーは単純。
青年二人(フェルランドとグリエルモ)は恋人(フィオルディリージとドラベッラ姉妹)の素晴らしさを褒め称えその愛の貞節を信じているが、老哲学者アルフォンソは批判的。では賭けようということになり、青年達は出征すると偽って別れを告げ、奇妙な外国人に変装して戻ってくる。
アルファンソは姉妹の小間使いデスピーナを買収して「お嬢様たちに一目ぼれした外国人」との仲を取り持つ片棒を持ちかけ、デスピーナはそれに乗る。
姉妹は最初「外国人」の誘惑を頑固に拒絶するが、そのうちにふらふらと。それぞれ本来の恋人と違う相手とカップルになってしまってさあ大変。
ここで、青年達は混乱と怒りをこめて、アルフォンソはそれ見たことかと声を合わせて歌うフレーズが「Cosi fan tutte 女はみんなこうしたもの」と言う訳です。

姉妹が自分の変装を見抜けなかったり、医者や公証人に変装したデスピーナに気づかないというのはまあご愛嬌と言うか突っ込まないこと。少なくとも私は考えないことにしてます。

さて、『コジ』を見るのは2回目。前に見たのはメトロポリタン・オペラの来日公演で、割に正統派の綺麗で可愛い舞台でした。

今回はやや時代と場所の設定は曖昧。でも大きくずれてはいないかな。
序曲の間に黒い服の男女が大勢出てきて、カップルになったりまた相手を取り替えたり。音だけでなく視覚的にもこれから始まる物語を暗示。

序曲が終わると明るい舞台に4本の白い柱。なかなかいい感じ。柱と言っても下部が人が通れるような、並べ方によっては回廊になるようなやつ。上部にアルコーブがあって。その上の文字は「VOLTAIRE」「CASANOVA」「MOZART」あとひとつ読めなかったけどこの並びならDA PONTEとか? CASANOVAだけ胸像が入ってました。

セットはその柱を出したり引っ込めたり裏返して壁にしたり。その他に大きな、やはり白い半円柱の壁が出てきて、それが開くとフランス風庭園が現れたりとか。シンプルながら工夫されてました。楽しかった。
2幕の最初では、その半円柱の壁一面にデスピーナが女性の裸体画を飾っていて、お嬢様たちをその気にさせようってことか(笑)ルーベンス風の絵なんだけど、まあそういうことですよね。お嬢様たちは慌てて目を白黒させてました。

話は飛んで、ラストシーン。全てが明らかになった後、さてどうなる?
えーと。
フェルランドとフィオルディリージだけがくっつくのか!

この二人は、カップルになってハッピーエンド。グリエルモは憮然とアルフォンソの横。ドラベッラも憤然とデスピーナの隣。
真面目で真剣な二人だけが、真の愛を見つけ出すと言う趣向か。
そういえば、途中も演出家はこの二人に思い入れがありそうな感じだったもんなあ。謎の外国人に化けて近づいたとき、毅然と拒絶するフィオルディリージから目を離せないフェルランドを見て、もしかしてこの瞬間恋に落ちたのか?と思いました。

うん、なかなか悪くないです。この結末は好きかも。

二組のカップルは元の鞘に戻る、と言うのが『コジ』の基本形。メトの来日公演でも、胸中複雑ながら元の恋人と手を取り合う、と言う感じでしたよね。
多分、そのほろ苦さこそが本来の『コジ』なんだと思います。

でも、一日で意気投合して盛り上がった相手が、本当に好きな相手なんだと言うオチも、正直な感じで好きです。
それに、その方がお似合いに見えるんだよね。第一ソプラノとテノール、第二ソプラノとバリトン、という組み合わせの方が(作中デュエットをする機会があるからこういう組み合わせになってるんだろうけど)。

ので、このラストはこれはこれで納得。ついでに享楽的と言うかリアリストなグリエルモとドラベッラも、くっついちゃっても構わないと思うけど。
世の中には、くだらないゲームを仕掛けた男どもをうっちゃって、女の子たちは手に手を取ってリゾートに出かけていく、と言うラストもあるらしく、見てみたいですな。

歌は、文句なしです。モーツアルトって好きで詳しい人が多いんで遠慮がちに言わせていただきますが、最初ちょっと声量がないかなと思ったけど、初日だからでしょう。だんだん伸びてきましたし。
2幕、ちょっと遊んでみましょうかと相談するフィオルディリージとドラベッラのデュエットは、甘くて綺麗で溶けました。
儲け役はデスピーナ。医者に化けたり公証人に化けたりもノリ良くばっちり。もちろん歌もばっちり。唯一の日本人キャストであることもあり、カーテンコールでは一番拍手もらってたかも。

***

ところで『コジ』のヅカキャスティング、実は私としてはみらゆか推奨なんですが(笑)。フェルランドはともかく、グリエルモみたいなキャラを二枚目にやって似合う人って、あんまりいないと思うんだよねー。と言う訳でみらんくんに是非。
ヒロイン、アンジェリーナが出てきてびっくり。
眼鏡っ娘ですか! 眼鏡に黒い地味なスーツで、眼鏡取ったら美人、ってことですか!
別に日本人向けって訳じゃないんだよな(笑)。舞台/プロダクション協力 モンテカルロ・オペラだそうです。

衣装は現代的。色彩はシンプル。
アンジェリーナ、王子ラミーロ、家庭教師アリドーロは黒。姉たちが赤なのは華美の象徴? 変身したアンジェリーナのドレスは、輝くようなスカイブルー。
セットは簡素。舞台の前方と後方を衝立と言うか襖のような黒い板で仕切って、それが動いて開閉して奥に部屋があるようなつくりになったり、全部取り払われて舞台全体が広間になったりする。
豪華な調度は無く、男爵邸ではテーブルと台所、王宮ではソファや庭の植え込みなどが、そこがどこだか象徴的に示す程度に登場するだけ。

演出はピエール・ルイージ・ピッツィ。やはり藤原の『カプレーティとモンテッキ』などを手がけた人。なるほど、あれもシンプルで光と影のコントラスト、少ない色彩を象徴的に使って立場の違いを見せた衣装が印象的でした。

『チェネレントラ』は所謂シンデレラの物語だけど、魔女も魔法も出てこない。
王子は従者と入れ替わり、身分でなく自分自身を愛してくれる相手を探す。娘は虐げられても明るく強く優しく生き、その美質を王子の家庭教師に認められ、王子とめぐり合う。
現実的なシンデレラストーリー。

それを、スタイリッシュな演出で見せられると、まるでハリウッドのロマンティック・コメディのようで。
素直にときめいちゃいました。

歌手陣はみな芸達者。

アンジェリーナ(チェネレントラ)=ヴィヴィカ・ジュノー
この人を見る(聴く)のは初めて。
美人!!(いきなりそれか)
最初の黒いスーツ(?)にエプロンも、変身後のスカイブルーのドレスも、最後のウェディングドレスも、似合うこと似合うこと。
勿論、容姿だけじゃない。柔らかく軽やか、かつ深みのあるメゾソプラノ。完璧なフィオリトゥーラ。

王子ラミーロ=ホアン・ホセ・ロペラ
この人は何度か聴いたことがある、はず。
コメディの中この人は割と真面目な感じですが、それが若い王子の役に合ってました。声も歌唱も端正で、それもまた王子。(容姿に華は無いけど、まあそれは仕方なし)

この二人なかなかお似合いでした。
最後、アンジェリーナを虐げた継父や義姉に、王子は怒りをあらわにするんですよね。その辺、若さと身分故の狭量さが見えるんですが、それを遮るアンジェリーナの柔らかさが良くて。良い伴侶になりそうだなという雰囲気でした。
でもそのアンジェリーナもただの善良な娘ではなくて。姉たちを許す理由として「高い地位にのぼるのだからそれにふさわしい行いをしなければなりません」と言うのに、納得。いや、前に見たときのことを忘れていたけれど、そうか、それならわかる、と思った。

ダンディーニ=ロベルト・デ・カンディア
王子の従者。王子と入れ替わって花嫁候補たちを試している……が、結構王子役を楽しんでる奴。まあ、フィガロ系?
この人も何度か聴いてるはず。すげーノリが良くて楽しかった! 見かけに騙され迫ってくる義理の姉たちへの態度とか、王子役が終ったときのため息とか、シニカルな味もあったりして。ほんと芸達者。歌唱の完璧さは言わずもがな。

ドン・マニーフィコ=ブルーノ・デ・シモーネ
アンジェリーナの継父。落ちぶれ男爵。実の娘二人のうちどちらかを王子に嫁がせようと夢見てるヒト。
この人は、聞いたことあったかなあ。忘れた(^^;。
カンディアとこの人が二人でコメディ部門の柱でしたな。ダンディーニが王子でないと正体をばらす場面のやりとりなんて、もう可笑しくって。歌唱面でもバリトン・バスの軽快なデュエットが楽しい。
徹底した俗物っぷり浮かれっぷりが気持ちよかったですわ。

アリドーロ=彭康亮
王子の家庭教師で、哲学者。優しく聡明なアンジェリーナを見出し、王子との出会いを導く。
終始真面目、シリアスなバス。この人は見ていていつも安心出来る人ですよねー。その低音も演技も舞台を引き締める存在感でした。

クロリンダ=高橋薫子/ティスベ=向野由美子
義姉ふたり。
すっげー可笑しかった。いや、美人だし、スタイルいいし(ほんとにドレスが似合うゴージャス美女だった)、声も歌も素晴らしいのに。いいノリしてるなあ。
高橋さんは、上手いのも美人で可愛いのも知ってましたが、向野さんは初めてだと思います。日本人でも実力と美貌を兼ね備えたキュートな女性歌手が育ってるなー。嬉しい嬉しい。

演奏も軽快で楽しかったです。
所謂、ロッシーニクレッシェンドって大好きなんですよねー。セビリアの1幕フィナーレと言い、このチェネレントラと言い。登場人物が勝手に混乱して怒濤のクレッシェンドでフィナーレになだれ込むのがもう最高に好きで。
堪能しました。

演出にも出演者にも全てに満足。久しぶりに見て『チェネレントラ』ってこんなに面白かったんだなーと感動。楽しかったー。

ただ、思ったけど、これって実はオーチャードホールでやるような演目ではないんだろうなあ。オケピがすかすかで最初驚いた。
本来はもっと小さいホールでやるべき? パンフの作品解説にも初演について「予算も規模も小さいヴァッレ劇場にふさわしいもの」が求められたと書いてあったし。もっと小さいホールなら、もっとヴィヴィッドに楽しさが伝わってきたかもしれない。
でも客は入ってるしなあ。このレベルの出演者を集めて舞台をつくるには、それなりのハコやらないと採算取れないんだろうなあ。

……あと、ハリウッドでもいいけどヅカでもいいかも。ロマコメでキャラ立ってるしバウにぴったりじゃん? と考え始めたら妄想キャスティングに突入して帰ってこられなくなりました。またかい(笑)。
久々のオペラです。
最近宝塚ばっかり見てるもんで、オーチャードホールの間口の狭さに驚きました(笑)。

普段オペラを見るときはあまりオペラグラスを使わないのですが、今日は結構使ってました。
ヴィオレッタが美人ソプラノ・エヴァ・メイ様だったからかと(笑)。前にサントリーホールオペラ『愛の妙薬』をひょんなことで最前列で見て、すごく美人でチャーミングで感嘆して以来。そのあと、やはり藤原のトラヴィアータで来日するはずだったけど、キャンセルになっちゃったんだよね。

が、オペラを使っていた理由はエヴァ様の美貌だけではなくて。
今回の演出も、理由のひとつでした(演出家はロレンツァ・ゴディニョーラ)。
印象を一言で言うなら、とても現代的な演出でした。
舞台装置は具象的だけれどシンプル。
衣裳ももしかしたら若干時代を後にしているのかな。夜会のドレスもヴェルヴェットよりサテンで、質感もシルエットもスマート。召使のアンニーナが丈の短い足首の見えるスカートを穿いていて驚いたけど、その辺りも時代が新しい感じ。ヴィオレッタの田舎暮らしの衣裳もロングワンピース風上着の下はズボンだったし、アルフレードが最後に現れるところも割と普通の背広だった。

そして演技も。
大時代的でない、現代的な演技。
派手に見得を切ったり、よよと泣き崩れたりしない。だから、表情の変化や感情の機微をオペラで追ってしまう。

エヴァ・メイのヴィオレッタは意志の強い女性。
そりゃ、ストーリーは変えられないからジェルモンに説得されて身を引いてしまうのだけれど、それでも2幕のジェルモンとのやりとりでは毅然として対決している。
1幕の「そはかの人か〜花から花へ」も自分の意志で決めた自分の人生を引き受ける覚悟がある。前に、1幕ラストでアルフレードが現れて二人熱く抱き合う演出も見たけれど、このヴィオレッタはそうではない。アルフレードに惹かれてはいるけれど、遠くに聞こえる彼の声によろめいたりしない。
でも、そんな意志の強い覚悟を決めた=心を鎧った孤独なヴィオレッタだからこそ、逆にアルフレードの真っ直ぐな愛情に落ちるのもわかる。
「誰もあなたを愛していない。でも僕は別だ」って。ここ、ヴィオレッタがアルフレードに何故惹かれるか、今までで一番納得がいった。やっぱり現代感覚で作っているからだと思う。
3幕もそう。誰もこの世界では私を救えない、と歌うヴィオレッタは嘆きではなく、神への怒りの色が強かった。神と、運命と対決する個人。
ここ、ヴィオレッタの髪が短いのに驚いた。当時の社交界では鬘だったからか、それとも極貧に陥って髪まで売ってしまったのか。

この演出は、エヴァ・メイの柄にも合っていてより効果を生んだんだと思う。今風の美貌だし。
今までになくヴィオレッタに感情移入しました。2幕は泣きそうなほどに。
脇役だけれど、アンニーナ(竹村佳子)と医師グランヴィル(山田祥雄)もよかった。リアルな演技で演出意図に応えていたと思う。グランヴィル先生は一幕からヴィオレッタのことを心配して、よき友人に見えていたものね。

演出が奇をてらわないながら現代的であったせいか、色々なことを考えさせられました。何度も何度も見ているオペラなのに、新しい気づきがいろいろあったなあと。
新しい演出と言うのは、何も時代や土地の設定を変えたりすることじゃないんだな、目先を変えなくても新しい演出はできるんだな、と再認識しました。

エヴァ・メイは演技だけでなく、勿論歌唱でも舞台を支えていました。
元々プリマドンナオペラだから、比重が高いのは当然ですが。
最初、ちょっと声が小さいな、届いてこないな、と思ったけれど「そはかの人か」で最初は様子を見ていたんだなとわかりました。聞かせどころになるとちゃんと出してくる。
ヴィオレッタにしてはちょっと声が細いような気もしましたがそこは好みの問題で、滑らかな美声で完璧な歌唱でした。

そう。プリマドンナオペラだから、ヒロイン良ければ全て良しとは言え。
あとがちょっと寂しかったかな……。

アルフレード=佐野成宏。
調子が悪かったんだと思う。風邪でもひいていたのかもしれない。
1幕の次点で「あ、やばそう」と思った。
で、2幕幕開きのアリア。
カヴァティーナ「燃える心を」はあちこち歌いづらそうだったけど、それでも何とかまとめていた。
でも、その後のカバレッタでやってしまった。途中声が出なくてオクターブ下げるなんて、練習ではよくあるけど本番で聞いたのは初めてだ。
何も無理して歌わなくても、歌えそうもないならカットしちゃえば良かったのにな。
その後、2幕後半はだいぶ持ち直してました。3幕も問題なく歌えていた。でもやっぱり一番の聞かせどころでコケたのは痛い。
本来は力のある人だと思うので、また調子のいいときに聞きたいです。

ジェルモン=堀内康雄。
藤原のトラヴィアータでジェルモンと言うと、この人が多いような気がする。実は私は大味な感じがしてあまり好きな声ではなかったのですが。
でも今回「あれ、いつもと違う?」と思った。2幕のヴィオレッタとのやりとり、記憶にある声と違う。
悪くはないんだけど、声が細くなったと言うか普通のバリトンになっちゃったなあと。いや、今までの声が好きじゃない私がそんなこと言うのもなんですが。
でも3幕は今までの声に近い感じでした。単に場面によって歌い方を変えているんだろうか。

演技と言う点ではこの二人はいまいちかなあ。普通にやっているだけと言うか。いや普通にやってれば十分なんだけど、エヴァ・メイが良かったもんで。
あと合唱も色々小芝居やっていて面白かったです。逆にジプシーの占い女と闘牛士はあっさりめ。
現代的ということは、地味と言えば地味なのかもしれない。

あ、余談ですが、八百屋舞台で結構傾斜がついていて、大変そうでした。出演者ご一同おつかれさまです。1幕でこけた人、演出家本当に転んだのか最初判断に迷った。演出だったようですが。
びわ湖ホール プロデュースオペラ ヴェルディ『十字軍のロンバルディア
人』見てまいりました。

期待通り、ぶんちゃかぶんちゃかでドッカンぎゃーなオペラでした。面白かったです。満足満足。

以下後日記入予定。
サマーオペラ モーツァルトシリーズ 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」
指揮/山下一史 演出/岩田宗達
合唱/ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団 管弦楽/ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団 

ドン・ジョヴァンニ:田中 由也
ドンア・アンナ:石橋 栄美
ドンナ・エルヴィラ:並河 寿美
レポレッロ:雁木 悟
騎士長:周 江平
ドン・オッターヴィオ:二塚 直紀
マゼット:西尾 岳史
ゼルリーナ:井上真紀子

昨日、ウィーン国立歌劇場の再発売でも「ドン・ジョヴァンニ」が取れなかったので……と言う訳だけでもないのですが、観に行きました。
(ウィーンは、まあ、地元まで観に行けばいいんだよな、そのうち)

私はあまりモーツァルト好きな人間でないのですが「ドン・ジョヴァンニ」は結構さまざまな演出があるので、そのあたりを楽しみにしてました。
結果、オーソドックスながら新機軸もあり、楽しみました。

今回気になったのは「手の傷」。
ドン・ジョヴァンニが騎士長と決闘するとき、普通は「老いぼれ」の騎士長を若いドン・ジョヴァンニが倒す。
だけど、この舞台では騎士長の方が強かった。
騎士長の剣はドン・ジョヴァンニの手を傷つけ剣を弾き飛ばす。主人の形勢不利を見たレポレッロが銃を取り出し、ドン・ジョヴァンニはそれを止めようとしたのか銃をよこせと言うことだったのか、とにかく二人が銃を手にもみ合っているうちに引き金が引かれ、騎士長は撃ち抜かれて絶命する。

その後、この時の手の傷は何度も出てくる。時には、ドン・ジョヴァンニは銃を手にしようとするが傷の痛みのために握ることができない。レポレッロに手当てさせるシーンや、他の従者たちに手当てさせているシーンもある。
そして最後、石像が迎えに来たときもドン・ジョヴァンニは手の痛みにのた打ち回っている。

推測だけれど、この痛みの正体は「騎士としてのプライド」ではないかと。
騎士。身分ある男。だから、女はお楽しみのためにとっかえひっかえするモノだし、平民どもが何を喚こうと知ったことか。
そんな自己の拠り所を、騎士長に勝てず卑怯な手段で殺したことは、傷つけたのではないかと。
そうなると「今日は何故か上手くいかない」ことも、彼のアイデンティティが傷ついたせいだと解釈できる。

評論や解説でドン・ジョヴァンニは「神に反逆する自由人。近代人の先駆」というように書かれる事がある。
が、この舞台のドン・ジョヴァンニは、(おそらくは若く)傲慢な騎士が、自分のアイデンティティを見失い破滅する物語だった。
後半になるにつれてやけっぱちのように荒々しくなっていくし。(悔い改めるよう説得に来たドンナ・エルヴィラへの手荒な扱いは凄かった。こんなの初めて見た)
何故今ここであの世からの迎えが来て悔い改めるよう迫るか、という点は、この話の方が納得がいきました。
(その分「No」と言う強さは薄れていたけど)

舞台上のセットでずっと大きな羽が置いてあるのだけれど、晩餐の場面では羽はない。代わりにシーンの頭に上から羽根がはらはらと落ちてくる。
これもまた「ドン・ジョヴァンニの自由の終わり」の象徴としてはうまいなあと。青春の終わり、と言う感じで。

「自由」と言う意味では、平民たちの方が飄々と自由に描かれていたし。神だのモラルだのとの対決なんて意識せずに。
(シャンパンの歌のところで、カタログ(女性の名前が一面に書かれた青い幕として出てくる)の下でカップルになっている村人たちのあっけらかんとしたいちゃつきぷりは、ドン・ジョヴァンニの立場ない感じだったもんなあ)

「ドン・ジョヴァンニ」を観るときいつも一番気になるのはドンナ・エルヴィラの描かれ方。
エルヴィラについては、特に変わったところもなくと言う感じでした。衣装は旅装めいた紺青のかっちりしたドレスで、彼女の立場や性格にも合っていて、よかったなあと。
ラスト、ドン・ジョヴァンニが消えたあと、彼女は彼の残したコートを大事そうに抱いたまま、他の登場人物が消えていく中舞台中央に残る。
その姿に「ドン・ジョヴァンニの妻」としての矜持が見えたような気がした。彼がどんなに女をとっかえひっかえしようと、彼を最後まで愛したのは私だけ。
彼女はドン・ジョヴァンニ未亡人として修道院へ行くのだ。

ドンナ・アンナ。
石像がドン・ジョヴァンニを迎えに来たとき、ステッキを残していくんですね。ドン・ジョヴァンニが消えた後アンナがそれを見つける。
そこで彼女は父が敵を討ってくれたことを悟り、落ち着いてドン・オッタービィオとの新しい生活を受け入れようとしはじめた、そんな気がしました。

その他こまかいこと。

・緞帳下ろしてその前で歌っている間にセット変え、が多かった。なんか……宝塚っぽい(笑)
・ドン・ジョヴァンニにレポレッロ以外の召使?がぞろぞろ。黒尽くめ終始無言の黙役でかっこよさげ。『ファントム』の従者を思い出してしまった(笑)

歌については何も書いてませんが、皆よかったです。特筆するほど印象に残った歌手はいませんでしたが、まあ私がモーツァルト観るとたいていそうなんで。
スポレート実験オペラ劇場III
歌劇「舞台裏騒動」フランチェスコ・ニェッコ 作曲 ジューリオ・アルトゥージ 台本
演奏 : スポレート実験オペラ劇場ソリスト及び室内楽団
演出・美術 : パオロ・バイオッコ
指揮者・ピアニスト : アンドレア・アマランテ
舞台監督 : 賀川 祐之
コリッラ …… S.ヴィアネッロ(ソプラノ)
ヴィオランテ …… T.マンチネッリ(メゾ・ソプラノ)
フェデリーコ …… J.ガンビーナ(テノール)
フィスキェット …… S.オスバット(テノール)
公演日 2004年7月4日(日)
時 間 14:00開演
場 所 京都芸術劇場 春秋座

なにやら珍しいオペラをやるというので言ってまいりました。
会場は京都造形芸術大学内の春秋座。
ネットで調べて、出町柳駅から15分ということで駅から歩き出したら、行けども行けども着かない。
炎天下を30分以上さまよって熱中症のような状態になりました。
文句を言いつつ帰ってから調べなおしたら「バスで15分」。
地図は良く見て確認しましょう、と言う話。

でも、そんなに体調最悪だったのに、暗い客席で室内楽とイタリア語のベルカントを聞いたら、すーっと落ち着いて、幸せな気分になりました。
「癒し」という言葉はあまり好きじゃないんですが、癒される感じ。
最近宝塚ばっかり見ているけど、やっぱり私のホームグラウンドはここだ、と妙に納得しましたわ。

ストーリーは他愛ない楽屋落ちもののオペラ・ブッファ。新作オペラの稽古風景で、ソプラノ歌手二人はいがみ合ったりテノール歌手と三角関係だったり、楽譜が間に合わなかったりライバル劇場の評判が気になったり、というオペラ好きはニヤリとするような話。
稽古風景の間にさまざまなポピュラーなアリアも歌われて(時代に関係なくリゴレットや愛の妙薬を歌いまくっていた)これまたオペラ好き向けだよなあ。
新国立劇場で、毎年シーズンの終わりにやってくれたら面白いのに。その年の演目を盛り込んで、小劇場か中劇場で。受けると思うんだけどな。

ニエッコは初めて聞く作曲家ですが、パイジェッロ、チマローザとロッシーニの間くらいの人と言うことで、違和感なく心地よい曲でした。登場人物同士の諍いがあると言ってもシビアな話ではなく、そのぬるさもまた心地よかったです。
(私にとっては。ロビーでの会話を聞いているとそれが不満だった人もいたらしい)

歌手はイタリアの若手。(若手無名歌手を実験的に起用するというのが「実験劇場」の趣旨らしい)適度な大きさの響きのいいホールにも助けられて、皆さん美声を聞かせてくれました。ビジュアル的にもなかなかだったし。

と言う訳で久々にオペラを堪能して幸せでした。
(帰って夜まで頭ががんがんしてへろへろでしたが)
新国立劇場「マクベス」
 マクベス:ヴォルフガング・ブレンデル
 マクベス夫人:ゲオルギーナ・ルカーチ
 バンクォー:妻屋秀和
 マクダフ:ミロスラフ・ドヴォルスキー
 指揮:ミゲル・ゴメス=マルティネス
 演出:野田秀樹

野田秀樹演出「マクベス」。オペラ好きだけでなく、演劇趣味のお客さんも結構いたようで。

その演出ですが。変なことしなくてよかったなぁと、胸をなでおろしました。いや、演出が鳴り物入りの場合って、下手に浮いたりしがちなので。(以前パルマで見たマクベスは第2次大戦風で、客席から野次が飛んでました)

演出的なキモは魔女の扱いではないかと。カオナシ(@千と千尋の神隠し)軍団がわらわらと。白いマスクに黒い布で全身を覆い、袖からは細長い白い腕(骨?)が出てるんですが、このバランスがカオナシっぽい。地獄の釜がこんなに具体的かつ大掛かりにビジュアル化されたのを見たのは初めてです。この点については文句なく拍手喝采。舞台いっぱいに大釜があって、カオナシ軍団がヒキガエルだの臓物だのボンボン投げ込んでるんですよ。煙は上がるし、迫力があった。その後の王たちのビジュアル化も良かったです。

セットも、鉄板と針金(のはずは無い。細い鉄骨)で城が作られてて、これが色々と形を変えるんですが、閉じると(?)王冠の形してるんですよね。うまいなあと。

最後も、戦争が終わりカオナシ魔女たちは、悲しむ女たちになります。今までの腕を死者の骨に変えてかき抱くことで。

あと黄色い花畑も意味があったんだと思うけど、これはよくわからなかった……。

と言う訳で、原作を損なうような変なことはしていないしビジュアル的には新しいアイデアがあったりとなかなか面白かったマクベスなのですが、私の個人的な満足度は今ひとつ。私はマクベスと言うオペラはかなり好きな方なのですが、ドラマの中心は、マクベスとマクベス夫人の生き様に置いてほしいと思ってしまうので、その意味では食い足りなかったです。プログラムにもありましたが、この演出のキーポイントは「魔女」と「戦争」なんでしょうね。
(マイベストは去年スカラ座来日公演のマクベスかなぁ。ヌッチがノーブルな感じもあってよかったし、立方体を配したセットと演出も好きでした)

歌手は特に不満なし。バンクォーの妻屋さん、いつもながらの安定感があって好きです。

来年1月にキャストを変えての再演が決まっているそうなので、また見たいと思います。
・シェーンベルク「期待」
 M.パッペンハイムの台本による、夜の森で、自分を捨てた恋人の屍を見出す一人の女性の心理的表現を歌劇にした、登場人物一人の劇。
・ブーランク「声」
 J.コクトーの台本による、捨てられた女が元の恋人に電話をかけ、自殺するまでの登場人物一人の歌劇。

現在生きていてオペラ好きをやっているからには、この人の声は一度生で聞かなきゃと思って。

実は、星組東宝とダブルヘッダーでした。ムラで見たときはタニちゃんとかしげちゃんなら圧倒的にタニちゃんがきらきらして目を奪われていたんですが、(狸御殿のときもそうだったんですが)、今はかしげちゃんの方に目が行く。アポリネールの銀橋ソロとか、ショーの白い衣装の銀橋ソロとか、すごいかっこいいと思う。何でだろ? 私の心境の変化か出演者の方に要因があるのか。

さて、ジェシー・ノーマン。

勿体無いことに、シェーンベルクは半分くらい寝てました。ごごごめんなさい。プーランクは良かったです。題材がわかりやすくストーリー的にものめりこめたし、音楽的にもこっちの方がメロディアスだし。

でも、作品がどうこうより何より<私の感想はこの1行に集約できます。

圧倒的な美声を堪能しました。来てよかったです。

深い深い美声。よく「天鵞絨のような」という形容詞を使いますが、正にこういう声のことを言うんだなあと。
豪勢な夜でした。
三枝成彰作曲、島田雅彦台本の新作オペラ「Jr.バタフライ」。

今まで観た日本制作オペラで「もう一度観たい」と思ったのは、このコンビの「忠臣蔵」だけだった。(名古屋での再演は行けず、新国立劇場の新演出版を観たが、演出は初演の方が良かった)
ので、これも期待していたのだが、結果は微妙……。

あらすじ。
1941年、長崎。老いたスズキが病の床で蝶々さんの思い出を語り、蝶々さんの息子が戻ってくるのを待っている。その息子Jr.バタフライ(JB)は神戸の米国領事館で働いていた。日本を戦争に追い込もうと考える上司と、彼は激しく対立する。(1幕)
JBは日本女性ナオミと恋仲で、二人は結婚を考えている。ナオミの兄・野田少佐は日米の対立が激化する中での恋を諦めるよう二人に言うが、二人は結婚する。つかの間幸せに暮らす二人だが、日米は開戦しJBは捕虜となる。(2幕)
ナオミは息子茶目を連れて収容所のJBを訪れる。二人は戦争が終わったらJBの生まれた土地・長崎で再会することを約束する。終戦後JBは長崎へ行くが、そこは原爆で見る影もなかった。JBは息子の茶目、スズキの世話をしていた修道女と出会い母の形見の短剣を受け取り、ナオミの行方を知る。二人は再会するが、ナオミは息絶える。(3幕)

幕が開いて「マダム・バタフライ」蝶々さんの死の場面のオーケストラが鳴り響く中で語り部が朗々と語るオープニングで「つかみはOK!」と思ったし、病床のスズキが蝶々さんを語るに至ってぼろぼろ泣けてきて「オープニングからこんなに泣いて先が思いやられる」と思った。
けど、最後まで観ても一番泣けたのはここだった。って言うのはやっぱりどうかと。

主人公に感情移入できなかったのが痛い。二人が恋に落ちる過程は全く描かれなかった。過程が無くても今愛し合ってるところを見せてくれればいいんだけど、それも伝わってこなかった。デュエットも「お互いを愛している」と言うより「恋という美しいものについて語り合っている」という感じだった。
(ワーグナー好きなら入り込めるのかも、とちょっと思った。「トリスタンとイゾルデ」でも延々愛について語り合ってるし。あまりワーグナーは観ないので偏見かもしれません)
全体的に「愛とは」「恋とは」「戦争とは」「国家とは」「民族とは」「アジアとは」e.t.c.、形而上的な会話・議論が多かった気がします。私にとっては多すぎた。(1幕2場なんてJBと上司が日米関係やアジアについて議論するだけ)「戦争は恋を殺す」「戦争を殺す恋もあります」とか台詞で言うだけじゃなくて「戦争を殺す恋」を物語として見せてほしかった。(見せたつもりなのか?)

そう言えば、やはり三枝の「静と義経」も説教臭くてつまらないと思ったことを思い出しました。
「忠臣蔵」も考えると理屈っぽい、説教臭い部分はあったけど、あれはそれ以上にエンターテインメントしてたから面白かったのに。

音楽は甘いメロディあり、現代音楽風あり、オーケストレイションも迫力あって楽しめた。(どっかで聞いたような……と言うのは仕方がないのだろう)

以下登場人物について。

・JB(Jr.バタフライ)
 情けない主人公。「自分は中立だ。日米どちらにも属さずこうもりの自由を生きる」と言っているが、その意志を全うしたのかどうかよくわからない。
 佐野成宏は流石の美声で、特に3幕2場荒れ果てた長崎や死にゆくナオミを嘆くところは聞かせてくれた。(でも物語と歌詞が引っかかってのめり込めなかった。なまじ日本語だから駄目なのかも)
・ナオミ
 ヒロイン。この人もよくわからない。生きた人間と言うより、美しい恋の象徴という印象を受けた。
 佐藤しのぶは熱演していたけれど、どうも生身の人間には思えなくて……うーむ。
 2幕2場白い着物姿でJBとのデュエットは「マダム・バタフライ」を踏襲したと思われる場面で美しかったですが。
・スズキ
 「マダム・バタフライ」との間をつなぎ、1幕1場を一人で支える人物。蝶々さんのことを語るのを聞いて涙してしまったのは、坂本朱の熱演のおかげもあった。横になっての歌は大変だったのではないかと。
 ミサが始まるので祈ってくれと修道女に言われ南無阿弥陀仏を唱える姿はぐっときました。(ので、その後の「アメリカの神は……」は要らないと思う)
・野田少佐
 真面目でストイックな日本軍人。(でも出征前に情を交わす女性はいる)
 この人が一番感情移入しやすかった。「お互い国に背くわけに行かないだろう」とJBとナオミの恋を止めるが、二人が引かないのを見て「いつか二人を祝福できる日が来るかもしれないが、そのとき自分はこの世にいないだろう。だから今盃を交わしておこう」というあたり、大人ないい人だ。
 直野資は安定したうまさです。格好もいいし、好きなバリトンです。

全体的に「惜しい!」というのが感想。マダム・バタフライの息子を主人公にするなんて美味しいネタで「Jr.バタフライ」ってタイトルだけで勝ったも同然って感じなのに。もっと王道的に、国家や歴史に翻弄される悲恋物語にしちゃえばよかったのに。
と言いつつ、きっとそうしたくなかったんだろうな、形而上の話をいっぱいしたかったんだろうな、とも思います。

と言う訳で私の好みではなかった「Jr.バタフライ」ですが、終演後ロビーで「後半盛り上がった」という感想も聞こえたし、人によって評価はいろいろなんだろうと。

何だかんだ言って、新作オペラを作るというのはとてつもなく手間と金のかかることだから、それをやりつづけるという点は応援したいと思う。まして、恋の場面で臆面もなく甘い旋律を書きまくる。素晴らしいです。(誉めてます)
更に新作プレミエなのに一番安いC席はなんと1,000円と激安。確か「忠臣蔵」もそうだった。これはありがたい。「とりあえず見てみてくれ」という気遣いだとしたらうれしいです。(高い席は高いから、やっぱり「1,000円なら見る客」を狙ってるんだろうなあ)
いやー、アルジェのギリシャ女。

以下後日記入予定。
Viva! ドニゼッティ!
私はテノールに弱い。
昨日放映のNHKニューイヤーオペラコンサートをビデオで見る。TVなので評価はしがたいですが、個人的に一番良かったと思うのは幸田幸子のヴィオレッタ「そはかの人か」。この人は新国立劇場「ナクソス島のアリアドネ」のツェルビネッタのときも良いと思ったけど、歌も声も良いし、表情豊かで美人。テノールは中島康晴、佐野成宏と今旬の人を揃えて楽しめました。
しかし、「蝶々夫人」誕生秘話の小芝居はいらないでしょう。その分の時間があったら1曲でも多く歌を聞かせてほしいんですが。(ゴロー役のためだけに出てきた松浦健にもソロを!)こういうのをやれば客が喜ぶと思ってるんでしょうか、NHKは。

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