ヴィセントはどんな気持ちで、ジョルジュのことを繰り返し孫に語っていたのだろう。
すみません今更ネバセイの話です(実は今日は17日)。
『NEVER』を観たのは大劇1回、東宝2回。当日B席と立見のみというチープな観劇。6/24の午後公演がラストでした。
その3回目。もうストーリーに文句を言ったり粗を探すのはやめて出演者を見ようと思いました。割とヴィセント中心に見てたんですよ。ほら私タニちゃん好きだし。
そしたら。
「ワンハート」でちょっとうるっと来ました。(いままでシラっとしてたのに)(をい)
ヴィセントが祖国を大切に思っていることは、最初からわかる。
ハリウッドでも、スペインを宣伝するパオロ(まりえったさん名演)に、ニコニコと楽しそうに協力的で、ジョルジュにも得意げな顔を見せたりしている。政治的なことをどこまで考えているかはともかく、民衆の国、人民の政府を実現した祖国を誇りに思っていることが見て取れる。
だから、内戦が始まるとその政府とバルセロナを守るために銃を取るのもわかる。
そう、誰の命令でもなく自分の意志で。
だから、ヴィセントを追っていると。
1幕最後、「やめてくれ!」の絶叫に、シンクロする。
国を守るため、民衆の政府を守るために立ち上がったはずの人々の、対立に。彼のやりきれない思いに、シンクロする。
多分、多くの迷える大衆の思いも同じで。だから、甘い耳障りのいいメッセージにすがりたくなる。
それが建設的な解決をもたらすものではないとしても。
ヴィセントは別に、センチュリア・オリンピアーダのリーダーと言う訳ではない。地元民が彼一人だけだから行動面で仲間を引っ張っているけれど、まとめ役としてのリーダーはマックス(すっしーさん好演)だよね。彼はまだまだ未熟な若造で、行き詰ると今まで一緒に戦ってきた仲間たちに「お前らは所詮外国人なんだ」とかひどい八つ当たりをしちゃうような奴だけれど。でも言ったあとの、言ってはいけないことを言ったとわかっていてでも後に引けなくてふてくされたような顔を見てると、何だかもうしょうがないなあと言う気分になる。どうやら、私はタニちゃんは少し欠けたところのある人間を演じている方が好きみたいです。だからパリアにはそれほど惹かれなかった。ジュンタさんには悪いけど(笑)。
未熟な青年だと思うと、彼の情熱、彼の青い正義、そして彼の挫折に愛しい痛みを感じる。
そしてその青い正義は、時としてこの物語そのものだ。
最初はそれがどうしても受け入れがたかったけれど、いや今でもそうだけれど。
でもこれが、未熟な青春の、青年の物語だと思ったら、それもありになってきた。
最後、ヴィセントは独り生き残る。内戦の敗北後、長い年月を生きる。
彼はどんな気持ちで、孫に語っていたのだろう。ジョルジュのこと、仲間たちのこと、内戦のことを、繰り返し。
若い日の記憶。仲間にならないか、と誘ったジョルジュを始め、ある意味自分が巻き込んだ人たちは全て死んで行き、ひとり生き残ってしまった。彼は内戦の意味を、自分達の、自分の戦いの意味を考えただろうか。繰り返し。
祖父の足跡を辿ってやってきたジョルジュとキャサリンの孫娘、ペギー。ジョルジュのカメラを、ヴィセントは彼女に渡す。時を越えて。
彼はカメラに愛しそうに顔を寄せ、晴れやかな笑顔でペギーにそれを渡す。
この瞬間、彼もまた青年期に決着をつけたのだと思うのは、うがちすぎだろうか。
でも、私は思いを馳せる。若さゆえ、子供の正義感を振りかざし逆にそれに振り回され、他人を傷つけ自分も傷ついた青年が、その記憶を反芻し消化するまでの、長い長い物語に。
前述のとおり、ヴィセントが一緒に戦ってきた仲間に「所詮外国人」呼ばわりするのはあちゃーと思いますが、ジョルジュに「お前は写真を撮ってるだけだろ」と言うのは間違ってはいないと思うのです。せっかく仲裁しようとしてくれた友人に言うべき言葉かどうかはともかく。
実際、この場面でのジョルジュは第三者ではあるのだし。実際に銃を取って戦う人だけが仲間ではないだろうけれど、例えば医者、食料や武器弾薬を調達する人等々と、写真を撮っている人は違う、と思う。記録や宣伝の意味を持って写真を撮ることが位置づけられていれば別だけれど、ジョルジュは「仲間にならないか」と誘われて「いや、俺はお前達の写真を撮るよ」と答えている訳だし。
勿論、それが悪い訳ではなくて。「写真を撮っているだけ」と言われたジョルジュの答えは「そうだ、だからこそ見えるものがある」になるはずだったんじゃないかと思うんだ。「俺も一緒に戦うよ」じゃなくて。
そう、初見から思っていた疑問。何故彼はカメラを、視る者であることを捨ててしまったのか。
でも、それも仕方ないのかな、と言う気がしてきた。
彼はデラシネである自分に強いコンプレックスを持っていた、ように見えるので。写真を愛するのとは別のところで。
生まれ育った村を捨てた。父を置き去りにして。それも、最初は医者になろうと志していたのに、写真に魅せられて写真家になった。望んだ道を歩みながら、ずっと後ろめたさが消えなかったんだろう。
だから、祖国を捨てて命がけで戦っている人々に惹かれて、今からやり直せると思って、写真を、視る者であること、デラシネであることを捨ててしまった。
恐らくは、無自覚に。
それはキャサリンに対する裏切りに等しいのだけれど。でもキャサリンは、全て受け入れて許している、ように見える。
銃を手にしたジョルジュは、キャサリンにフィルムを渡し、彼女はアメリカに帰ってそれを出版するように言う。
「僕は彼らに人生の真実を見出した。そしてその真実を共有できる君と出会った」と言うジョルジュの言葉を聞いているキャサリン。客席から見えるのは後姿だけれど、その後姿がどんどん小さくなっていくような気が、私にはした。小さく、見る間に年老いていくように。そして、低い声。低く低く、ぞっとするような絶望的に彩られた声。
かつて、単純な善意と感動に動かされ銃を取ろうとしたキャサリンを、ジョルジュは「これは彼らの戦いだ」と言って止めた。そして、二人はともに視る者であることを確かめあった。
そのジョルジュが銃を取り、戦いに身を投じようとしている。カメラを置いて。昔そんなことを自分が言ったことも忘れたように。いや実際忘れているのだろう。
いいわ。全てゆるしてあげる。あなたの裏切りも、あなたの変節も、全てゆるしてあげる。
だって、あなたを愛しているから。それでもあなたを愛しているから。
と、言う形で、ジョルジュとキャサリンの愛の物語は私の中で整理されました。
多分、これもうがった見方なのだろうなあと思います。
でも、それだけはなちゃんのキャサリンが、ジョルジュを愛しているのがわかるから。別れの言葉にどんどん寂しく小さくなっていく背中に、胸を詰まらせられたから。
そして、一緒にジョルジュを許す気になれたから。
仕方ないね。身勝手で残酷な、でも憎めない魅力的な人。
と言う訳で、私的に『NEVER』はこんな形で決着しました。
でも、実はこんなことはどうでもいいことなんだと思います。出演者のファンがこの作品を好きでいるのならば。タカコさんの歌う「ワンハート」「サヨナラは言わない」に涙することが出来るなら。
部外者の戯言は、どうでもいいことなんだろうと思う。(なら書くなよ)(いや一応ここ私の日記だし)
すみません今更ネバセイの話です(実は今日は17日)。
『NEVER』を観たのは大劇1回、東宝2回。当日B席と立見のみというチープな観劇。6/24の午後公演がラストでした。
その3回目。もうストーリーに文句を言ったり粗を探すのはやめて出演者を見ようと思いました。割とヴィセント中心に見てたんですよ。ほら私タニちゃん好きだし。
そしたら。
「ワンハート」でちょっとうるっと来ました。(いままでシラっとしてたのに)(をい)
ヴィセントが祖国を大切に思っていることは、最初からわかる。
ハリウッドでも、スペインを宣伝するパオロ(まりえったさん名演)に、ニコニコと楽しそうに協力的で、ジョルジュにも得意げな顔を見せたりしている。政治的なことをどこまで考えているかはともかく、民衆の国、人民の政府を実現した祖国を誇りに思っていることが見て取れる。
だから、内戦が始まるとその政府とバルセロナを守るために銃を取るのもわかる。
そう、誰の命令でもなく自分の意志で。
だから、ヴィセントを追っていると。
1幕最後、「やめてくれ!」の絶叫に、シンクロする。
国を守るため、民衆の政府を守るために立ち上がったはずの人々の、対立に。彼のやりきれない思いに、シンクロする。
多分、多くの迷える大衆の思いも同じで。だから、甘い耳障りのいいメッセージにすがりたくなる。
それが建設的な解決をもたらすものではないとしても。
ヴィセントは別に、センチュリア・オリンピアーダのリーダーと言う訳ではない。地元民が彼一人だけだから行動面で仲間を引っ張っているけれど、まとめ役としてのリーダーはマックス(すっしーさん好演)だよね。彼はまだまだ未熟な若造で、行き詰ると今まで一緒に戦ってきた仲間たちに「お前らは所詮外国人なんだ」とかひどい八つ当たりをしちゃうような奴だけれど。でも言ったあとの、言ってはいけないことを言ったとわかっていてでも後に引けなくてふてくされたような顔を見てると、何だかもうしょうがないなあと言う気分になる。どうやら、私はタニちゃんは少し欠けたところのある人間を演じている方が好きみたいです。だからパリアにはそれほど惹かれなかった。ジュンタさんには悪いけど(笑)。
未熟な青年だと思うと、彼の情熱、彼の青い正義、そして彼の挫折に愛しい痛みを感じる。
そしてその青い正義は、時としてこの物語そのものだ。
最初はそれがどうしても受け入れがたかったけれど、いや今でもそうだけれど。
でもこれが、未熟な青春の、青年の物語だと思ったら、それもありになってきた。
最後、ヴィセントは独り生き残る。内戦の敗北後、長い年月を生きる。
彼はどんな気持ちで、孫に語っていたのだろう。ジョルジュのこと、仲間たちのこと、内戦のことを、繰り返し。
若い日の記憶。仲間にならないか、と誘ったジョルジュを始め、ある意味自分が巻き込んだ人たちは全て死んで行き、ひとり生き残ってしまった。彼は内戦の意味を、自分達の、自分の戦いの意味を考えただろうか。繰り返し。
祖父の足跡を辿ってやってきたジョルジュとキャサリンの孫娘、ペギー。ジョルジュのカメラを、ヴィセントは彼女に渡す。時を越えて。
彼はカメラに愛しそうに顔を寄せ、晴れやかな笑顔でペギーにそれを渡す。
この瞬間、彼もまた青年期に決着をつけたのだと思うのは、うがちすぎだろうか。
でも、私は思いを馳せる。若さゆえ、子供の正義感を振りかざし逆にそれに振り回され、他人を傷つけ自分も傷ついた青年が、その記憶を反芻し消化するまでの、長い長い物語に。
前述のとおり、ヴィセントが一緒に戦ってきた仲間に「所詮外国人」呼ばわりするのはあちゃーと思いますが、ジョルジュに「お前は写真を撮ってるだけだろ」と言うのは間違ってはいないと思うのです。せっかく仲裁しようとしてくれた友人に言うべき言葉かどうかはともかく。
実際、この場面でのジョルジュは第三者ではあるのだし。実際に銃を取って戦う人だけが仲間ではないだろうけれど、例えば医者、食料や武器弾薬を調達する人等々と、写真を撮っている人は違う、と思う。記録や宣伝の意味を持って写真を撮ることが位置づけられていれば別だけれど、ジョルジュは「仲間にならないか」と誘われて「いや、俺はお前達の写真を撮るよ」と答えている訳だし。
勿論、それが悪い訳ではなくて。「写真を撮っているだけ」と言われたジョルジュの答えは「そうだ、だからこそ見えるものがある」になるはずだったんじゃないかと思うんだ。「俺も一緒に戦うよ」じゃなくて。
そう、初見から思っていた疑問。何故彼はカメラを、視る者であることを捨ててしまったのか。
でも、それも仕方ないのかな、と言う気がしてきた。
彼はデラシネである自分に強いコンプレックスを持っていた、ように見えるので。写真を愛するのとは別のところで。
生まれ育った村を捨てた。父を置き去りにして。それも、最初は医者になろうと志していたのに、写真に魅せられて写真家になった。望んだ道を歩みながら、ずっと後ろめたさが消えなかったんだろう。
だから、祖国を捨てて命がけで戦っている人々に惹かれて、今からやり直せると思って、写真を、視る者であること、デラシネであることを捨ててしまった。
恐らくは、無自覚に。
それはキャサリンに対する裏切りに等しいのだけれど。でもキャサリンは、全て受け入れて許している、ように見える。
銃を手にしたジョルジュは、キャサリンにフィルムを渡し、彼女はアメリカに帰ってそれを出版するように言う。
「僕は彼らに人生の真実を見出した。そしてその真実を共有できる君と出会った」と言うジョルジュの言葉を聞いているキャサリン。客席から見えるのは後姿だけれど、その後姿がどんどん小さくなっていくような気が、私にはした。小さく、見る間に年老いていくように。そして、低い声。低く低く、ぞっとするような絶望的に彩られた声。
かつて、単純な善意と感動に動かされ銃を取ろうとしたキャサリンを、ジョルジュは「これは彼らの戦いだ」と言って止めた。そして、二人はともに視る者であることを確かめあった。
そのジョルジュが銃を取り、戦いに身を投じようとしている。カメラを置いて。昔そんなことを自分が言ったことも忘れたように。いや実際忘れているのだろう。
いいわ。全てゆるしてあげる。あなたの裏切りも、あなたの変節も、全てゆるしてあげる。
だって、あなたを愛しているから。それでもあなたを愛しているから。
と、言う形で、ジョルジュとキャサリンの愛の物語は私の中で整理されました。
多分、これもうがった見方なのだろうなあと思います。
でも、それだけはなちゃんのキャサリンが、ジョルジュを愛しているのがわかるから。別れの言葉にどんどん寂しく小さくなっていく背中に、胸を詰まらせられたから。
そして、一緒にジョルジュを許す気になれたから。
仕方ないね。身勝手で残酷な、でも憎めない魅力的な人。
と言う訳で、私的に『NEVER』はこんな形で決着しました。
でも、実はこんなことはどうでもいいことなんだと思います。出演者のファンがこの作品を好きでいるのならば。タカコさんの歌う「ワンハート」「サヨナラは言わない」に涙することが出来るなら。
部外者の戯言は、どうでもいいことなんだろうと思う。(なら書くなよ)(いや一応ここ私の日記だし)
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