『NEVER SAY GOODBYE』見て参りました。5/27に立見で。友会優先公演なので終演後のご挨拶もあり、お得でした。
実は既に、宝塚大劇場で1回見ております。
その時の感想は「こんなしょぼい作品でたかはなが退団なのか」という失礼千万なものだったのですが(すみません…)、今回だいぶ印象が変わりました。良かった、良くなってた。
それはやはり演じる側の熱気によるところが大きいかと。元々大きな不満点は「薄い」「書き込み不足」だったので、出演者の熱演で力で底上げ可能なんですな。
が、それと同時に、やはり私はこの話ノレなかったのも事実。
何故ノレないのか、その辺の理由を整理してみます。
あ、以前緑野さんにタカコさんの歌について私が難聴であるかのように言われましたがそんなことはなくて、芝居の歌詞はちゃんと聞き取れます。ショーはかなり難しいですが。たぶん集中力の問題だと思われます。芝居の歌詞は台詞と同じなので聞き取ろうとするけれど、ショーはどっちでもいいやと思うので耳に入ってこないんでしょう。(花組公演でも『パレルモ』は問題なかったのに『ASIAN』はさっぱりだった)ので、不満の理由は歌詞が聞き取れないから話がわからないと言う訳では無いってことで。
理由その1。
まず第一に「薄い」ということ。
出演者の演技のおかげでだいぶ埋められてはいるものの、それでも薄いのは否めません。
必要以上に歌を多用した結果、物語が間延びした感じ。普通に台詞でやれば短くすむ場面がすべて引き伸ばされ、水増しされているような。高名な作曲家に依頼したので元を取ろうとたくさん書いてもらったからかと邪推してしまった(苦笑)。
その一方で、もっとじっくり描いてほしいところが描かれていない。国を守るために戦いに身を投じる者の葛藤とか、同じ目的を持って集まったのに主義主張で分裂したやるせなさとか。そりゃ、エピソードをいちいち掘り下げて描いていたら散漫になるかもしれないし時間もないだろうけど、それにしても全部歌で流されている、と言うか誤魔化されている気がする。
少なくとも、オリンピアーダの仲間たちの仲たがいと仲直りは、ジョルジュの歌でなし崩しにやっぱり仲間、ではなくて、きちんと描くべきだと思う(ベルばらの子守唄じゃあるまいし)。そうしないと彼らの人間性が薄っぺらだし、何故ジョルジュが彼らに人生の真実を見出したのかわからない。ついでに戻ってきたタリックを受け入れるくだりも、かっこつけで終わらないでちゃんと台詞でドラマにして表現してほしかった。
そして一番「うわー何故そこを描かない!」と思ったのは、キャサリン救出の件。クスリで自分の意思を奪われ操り人形にされたキャサリンを、ジョルジュと仲間たちは救い出す。
で、どうしてその直後の場面でキャサリンは既に正気を取り戻しているんですか。ここは正気を取り戻すところこそ描くべきでしょう。
例えば。隠れ家に落ち着いて、ジョルジュに名を呼ばれてうつろな声でアギラールへの恭順を口にするキャサリン。思わず激高するジョルジュに、彼女は正気じゃないんだと止めるヴィセントたち。ジョルジュの必死の呼びかけがキャサリンの意識を呼び戻す。あなたにまた会えた!とキャサリン。抱き合う二人のデュエット。
美味しいシーンができそうじゃないですか。
第二に、歴史ドラマ、群像劇として見た場合の不満。
この物語において、敵は誰だ?
ファシストと反乱軍に決まっている、と言う人がいるかもしれない。でも、実際に舞台に敵役として出てくるのは、ヒトラーでもフランコ将軍でもなく、アギラール委員じゃないの? 実際に舞台で人々が苦しんでいるのは、反乱軍の攻撃のためではなく、内紛と粛清によってじゃないの?
敵はジオンだけれど連邦軍の偉いさんも日和見で民間人の主人公たちは翻弄されるばかり、と言う話なら、連邦の腐敗の前にジオンの脅威を描くだろう。敵は帝国だけれど同盟軍も目先の利益と保身しか考えない連中ばかりで主人公は大変、と言う話なら、まず敵である帝国を描くだろう。(例えがオタクですみません)ファシズムと反乱軍は、言葉として、観念としてしか出てこない。観念としては、ハリウッドの場面から盛んに口にされるけれど実体がない。
命からがら悪の権力者アギラールから逃れたあとに、ジョルジュの写真を出版したキャサリンが「ファシズムの脅威を全世界に訴えた」と言われても、え、そういう話だっけ?と思うよね。
あ、ファシズムのことはみんな知ってるから説明不要と言うのは、私的には却下です。
せめて、実体としての敵を出せばよかったのにと思う。例えば前半の少年が負傷する場面でも、彼を傷つけた敵兵を出すとか、その装備の強さと残虐さを見せておくとか。でなければ、小池氏得意のスクリーン映像でヒトラーとドイツ軍とかゲルニカ爆撃とか、効果的に見せておけばよかったのに。
どうしてこんなに観念的になってしまったんだろう。それもまた薄さの一因。
歴史ドラマとしてもうひとつ不満なのは、アギラールという人物の描き方。
だって、一幕最後でアギラールの言ってることは正しいじゃん!「バラバラでは勝てない」そのとおり。誰かが統制して指揮を取らずしてどうする。「俺たちは自由な意志で集まった、誰の指図も受けない」って、それぞれの意志で勝手に戦ってたら軍備の整った軍隊には勝てないよ。
たまたま、彼は悪人であることが後で明らかになりますが、この時点では正しいことを言っている、と私は思う訳ですよ。
ので、その後の「One Heart」に共感できない。「スペインを守るために立ち上がった我々が仲間割れしてはいけない」それは正しい。が、そのことを認めて武器を置いただけでは出発点に立ち返っただけで、問題は解決してない。なのに解決したかのように感動していいのか。
二幕でアギラールは私利私欲上等小悪党であることが明らかになります。どうしてそうしちゃうかなあ。粛清と弾圧の担い手である彼もまた、理想と現実のギャップに苦しんでいた。その重圧から愛する女性を求めたが拒絶されて逆上、誤った手段に走った。とかいう感じの人物にした方がドラマとして面白いと思うんだけどなあ。それが「俺とスペインを支配しよう」って、そんなボロボロのスペインをあんた……。
いや、彼を私利私欲上等悪役にするドラマもありだとは思うんですよ。でもそういう風に、仮にも指導者的立場の人物を矮小化する場合、歴史を描くより恋愛がテーマなのだとはっきりしてほしい。それならそれで、そういう話だと納得できるから。時代背景を三角関係の効果的な背景としてのみ使ったオペラ『トスカ』のように(ヴェルディは「プッチーニは良い題材を手に入れた」と言ったのに、当のプッチーニは愛国心や政治的要素をすっかり隅に追いやってしまったと言う)。
更に、怒涛の恋愛ものにして1幕に縮めてショーをつけてくれた方が、私は嬉しい。今のままでは、歴史的大作を狙ったけれど実態はラブストーリー、でも歴史的大作を装っているおかげで恋愛も書き込み不足、という気がして、どっちにしても物足りないです。
第三に、主人公・ジョルジュの生き様について。
彼が人生の真実を見出すもの、根無し草の根を下ろす場所は、何故民兵としての戦場だったのだろう。
「同じものを見ている」キャサリンとの関係では、何故いけなかったのだろう。
ムラで一度見たときから、ずっとその疑問が引っかかっていました。
彼が祖国を持たない根無し草としての自分に引け目や焦りを感じていたことは「俺はデラシネ」の歌でわかる。祖国を離れて自由な意思で集い戦いに身を投じる人々の姿に、祖国を捨てた自分でも仲間として居場所を持てると憧れるのもわかる。
でも、それじゃキャサリンはどうなる。
同じものを見る、と言ったキャサリン。彼の居場所、彼の「根」は「見る」ことにあったんじゃないのか。彼はカメラで、キャサリンは言葉で。彼らは恋人同士であると同時に、見てそれを表現する生き方を選んだ同志ではないのか。
と言う訳で、今回は何故ジョルジュが戦いを選んだのかに注目してずっと見ていました。
で、結論。
ジョルジュが「俺も(武器を取って)戦う」と言ったのは、キャサリンに振られたからだ!
キャサリンにアギラールの下でラジオの仕事を続けると言われて、同じものを見ていたはずの彼女に置いていかれたような気がして、寂しかったからだ。で、センチュリア・オリンピアーダに居場所を求めたんですよね? 外国人でも祖国を離れてもともに戦う仲間だと言っている彼らに。
なんつーか、底の浅い男だなあ。
いや、すみません。ひねくれたモノの見方して。でも本気でそう見えたんですよ。
キャサリン奪回もあっさり済んじゃうから、ジョルジュのキャサリンへの愛を示す場面が無いしなあ。その前の銀橋ソングで「男と女の間には越えられない川が」とか言ってるけど、男と女とか言う問題じゃないだろう、ただの独占欲だろう、って感じだし。
だからフィルムをキャサリンに預けるラストも、私的には釈然としません。
いやまあ、ヴィセントの選択(混乱するバルセロナを見捨ててどこ行くんだ、故郷のために立ち上がったんじゃないのか)等も考えあわせて見ると、ただ単に「男は戦うのがカッコイイ」って思想なんじゃないかと言う気もしますが。
結論として、浅いし薄いし歴史ドラマとしても恋愛ものとしても消化不良、言う感想。
ですが、なのですが。そのはずなんですが。
そう、そのはずなんですが。
物語の字面を追うと、ジョルジュは底の浅い男に見えるのに、それでも彼の「俺はデラシネ」の嘆きは胸を打つ。
物語の字面を追うと、ジョルジュはキャサリンを理解しておらず二人の愛はかみ合っていないように見えるのに、それでも二人が占いにお互いの思いを自覚し見つめあう瞬間、時が止まる。手渡されるフィルムにゆるぎない愛と信頼が見える。
和央ようかと花總まりに、負ける瞬間。
舞台は結局、役者のものなんだなあ。
実は既に、宝塚大劇場で1回見ております。
その時の感想は「こんなしょぼい作品でたかはなが退団なのか」という失礼千万なものだったのですが(すみません…)、今回だいぶ印象が変わりました。良かった、良くなってた。
それはやはり演じる側の熱気によるところが大きいかと。元々大きな不満点は「薄い」「書き込み不足」だったので、出演者の熱演で力で底上げ可能なんですな。
が、それと同時に、やはり私はこの話ノレなかったのも事実。
何故ノレないのか、その辺の理由を整理してみます。
あ、以前緑野さんにタカコさんの歌について私が難聴であるかのように言われましたがそんなことはなくて、芝居の歌詞はちゃんと聞き取れます。ショーはかなり難しいですが。たぶん集中力の問題だと思われます。芝居の歌詞は台詞と同じなので聞き取ろうとするけれど、ショーはどっちでもいいやと思うので耳に入ってこないんでしょう。(花組公演でも『パレルモ』は問題なかったのに『ASIAN』はさっぱりだった)ので、不満の理由は歌詞が聞き取れないから話がわからないと言う訳では無いってことで。
理由その1。
まず第一に「薄い」ということ。
出演者の演技のおかげでだいぶ埋められてはいるものの、それでも薄いのは否めません。
必要以上に歌を多用した結果、物語が間延びした感じ。普通に台詞でやれば短くすむ場面がすべて引き伸ばされ、水増しされているような。高名な作曲家に依頼したので元を取ろうとたくさん書いてもらったからかと邪推してしまった(苦笑)。
その一方で、もっとじっくり描いてほしいところが描かれていない。国を守るために戦いに身を投じる者の葛藤とか、同じ目的を持って集まったのに主義主張で分裂したやるせなさとか。そりゃ、エピソードをいちいち掘り下げて描いていたら散漫になるかもしれないし時間もないだろうけど、それにしても全部歌で流されている、と言うか誤魔化されている気がする。
少なくとも、オリンピアーダの仲間たちの仲たがいと仲直りは、ジョルジュの歌でなし崩しにやっぱり仲間、ではなくて、きちんと描くべきだと思う(ベルばらの子守唄じゃあるまいし)。そうしないと彼らの人間性が薄っぺらだし、何故ジョルジュが彼らに人生の真実を見出したのかわからない。ついでに戻ってきたタリックを受け入れるくだりも、かっこつけで終わらないでちゃんと台詞でドラマにして表現してほしかった。
そして一番「うわー何故そこを描かない!」と思ったのは、キャサリン救出の件。クスリで自分の意思を奪われ操り人形にされたキャサリンを、ジョルジュと仲間たちは救い出す。
で、どうしてその直後の場面でキャサリンは既に正気を取り戻しているんですか。ここは正気を取り戻すところこそ描くべきでしょう。
例えば。隠れ家に落ち着いて、ジョルジュに名を呼ばれてうつろな声でアギラールへの恭順を口にするキャサリン。思わず激高するジョルジュに、彼女は正気じゃないんだと止めるヴィセントたち。ジョルジュの必死の呼びかけがキャサリンの意識を呼び戻す。あなたにまた会えた!とキャサリン。抱き合う二人のデュエット。
美味しいシーンができそうじゃないですか。
第二に、歴史ドラマ、群像劇として見た場合の不満。
この物語において、敵は誰だ?
ファシストと反乱軍に決まっている、と言う人がいるかもしれない。でも、実際に舞台に敵役として出てくるのは、ヒトラーでもフランコ将軍でもなく、アギラール委員じゃないの? 実際に舞台で人々が苦しんでいるのは、反乱軍の攻撃のためではなく、内紛と粛清によってじゃないの?
敵はジオンだけれど連邦軍の偉いさんも日和見で民間人の主人公たちは翻弄されるばかり、と言う話なら、連邦の腐敗の前にジオンの脅威を描くだろう。敵は帝国だけれど同盟軍も目先の利益と保身しか考えない連中ばかりで主人公は大変、と言う話なら、まず敵である帝国を描くだろう。(例えがオタクですみません)ファシズムと反乱軍は、言葉として、観念としてしか出てこない。観念としては、ハリウッドの場面から盛んに口にされるけれど実体がない。
命からがら悪の権力者アギラールから逃れたあとに、ジョルジュの写真を出版したキャサリンが「ファシズムの脅威を全世界に訴えた」と言われても、え、そういう話だっけ?と思うよね。
あ、ファシズムのことはみんな知ってるから説明不要と言うのは、私的には却下です。
せめて、実体としての敵を出せばよかったのにと思う。例えば前半の少年が負傷する場面でも、彼を傷つけた敵兵を出すとか、その装備の強さと残虐さを見せておくとか。でなければ、小池氏得意のスクリーン映像でヒトラーとドイツ軍とかゲルニカ爆撃とか、効果的に見せておけばよかったのに。
どうしてこんなに観念的になってしまったんだろう。それもまた薄さの一因。
歴史ドラマとしてもうひとつ不満なのは、アギラールという人物の描き方。
だって、一幕最後でアギラールの言ってることは正しいじゃん!「バラバラでは勝てない」そのとおり。誰かが統制して指揮を取らずしてどうする。「俺たちは自由な意志で集まった、誰の指図も受けない」って、それぞれの意志で勝手に戦ってたら軍備の整った軍隊には勝てないよ。
たまたま、彼は悪人であることが後で明らかになりますが、この時点では正しいことを言っている、と私は思う訳ですよ。
ので、その後の「One Heart」に共感できない。「スペインを守るために立ち上がった我々が仲間割れしてはいけない」それは正しい。が、そのことを認めて武器を置いただけでは出発点に立ち返っただけで、問題は解決してない。なのに解決したかのように感動していいのか。
二幕でアギラールは私利私欲上等小悪党であることが明らかになります。どうしてそうしちゃうかなあ。粛清と弾圧の担い手である彼もまた、理想と現実のギャップに苦しんでいた。その重圧から愛する女性を求めたが拒絶されて逆上、誤った手段に走った。とかいう感じの人物にした方がドラマとして面白いと思うんだけどなあ。それが「俺とスペインを支配しよう」って、そんなボロボロのスペインをあんた……。
いや、彼を私利私欲上等悪役にするドラマもありだとは思うんですよ。でもそういう風に、仮にも指導者的立場の人物を矮小化する場合、歴史を描くより恋愛がテーマなのだとはっきりしてほしい。それならそれで、そういう話だと納得できるから。時代背景を三角関係の効果的な背景としてのみ使ったオペラ『トスカ』のように(ヴェルディは「プッチーニは良い題材を手に入れた」と言ったのに、当のプッチーニは愛国心や政治的要素をすっかり隅に追いやってしまったと言う)。
更に、怒涛の恋愛ものにして1幕に縮めてショーをつけてくれた方が、私は嬉しい。今のままでは、歴史的大作を狙ったけれど実態はラブストーリー、でも歴史的大作を装っているおかげで恋愛も書き込み不足、という気がして、どっちにしても物足りないです。
第三に、主人公・ジョルジュの生き様について。
彼が人生の真実を見出すもの、根無し草の根を下ろす場所は、何故民兵としての戦場だったのだろう。
「同じものを見ている」キャサリンとの関係では、何故いけなかったのだろう。
ムラで一度見たときから、ずっとその疑問が引っかかっていました。
彼が祖国を持たない根無し草としての自分に引け目や焦りを感じていたことは「俺はデラシネ」の歌でわかる。祖国を離れて自由な意思で集い戦いに身を投じる人々の姿に、祖国を捨てた自分でも仲間として居場所を持てると憧れるのもわかる。
でも、それじゃキャサリンはどうなる。
同じものを見る、と言ったキャサリン。彼の居場所、彼の「根」は「見る」ことにあったんじゃないのか。彼はカメラで、キャサリンは言葉で。彼らは恋人同士であると同時に、見てそれを表現する生き方を選んだ同志ではないのか。
と言う訳で、今回は何故ジョルジュが戦いを選んだのかに注目してずっと見ていました。
で、結論。
ジョルジュが「俺も(武器を取って)戦う」と言ったのは、キャサリンに振られたからだ!
キャサリンにアギラールの下でラジオの仕事を続けると言われて、同じものを見ていたはずの彼女に置いていかれたような気がして、寂しかったからだ。で、センチュリア・オリンピアーダに居場所を求めたんですよね? 外国人でも祖国を離れてもともに戦う仲間だと言っている彼らに。
なんつーか、底の浅い男だなあ。
いや、すみません。ひねくれたモノの見方して。でも本気でそう見えたんですよ。
キャサリン奪回もあっさり済んじゃうから、ジョルジュのキャサリンへの愛を示す場面が無いしなあ。その前の銀橋ソングで「男と女の間には越えられない川が」とか言ってるけど、男と女とか言う問題じゃないだろう、ただの独占欲だろう、って感じだし。
だからフィルムをキャサリンに預けるラストも、私的には釈然としません。
いやまあ、ヴィセントの選択(混乱するバルセロナを見捨ててどこ行くんだ、故郷のために立ち上がったんじゃないのか)等も考えあわせて見ると、ただ単に「男は戦うのがカッコイイ」って思想なんじゃないかと言う気もしますが。
結論として、浅いし薄いし歴史ドラマとしても恋愛ものとしても消化不良、言う感想。
ですが、なのですが。そのはずなんですが。
そう、そのはずなんですが。
物語の字面を追うと、ジョルジュは底の浅い男に見えるのに、それでも彼の「俺はデラシネ」の嘆きは胸を打つ。
物語の字面を追うと、ジョルジュはキャサリンを理解しておらず二人の愛はかみ合っていないように見えるのに、それでも二人が占いにお互いの思いを自覚し見つめあう瞬間、時が止まる。手渡されるフィルムにゆるぎない愛と信頼が見える。
和央ようかと花總まりに、負ける瞬間。
舞台は結局、役者のものなんだなあ。
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