『落陽のパレルモ』において、主人公の母の名はフェリーチタ。
その意味は「幸福」と最後の方で語られている。彼女を愛した男が、その名にふさわしい幸福を与えてやれなかったと。

では、彼の名は。
主人公の、そしてその子孫の名はヴィットリオ。意味は勝利。
恐らく、その象徴するところは、愛の勝利なのだろう。身分の差と言う障害に負けず、人種差別と言う障害に負けず、貫く愛の勝利。
タカラヅカにふさわしい話だ。

以下、ネタばれありで。

ヒロイン・公爵令嬢アンリエッタの前に、ヒーロー・ヴィットリオはイタリア統一運動の立役者である凛々しい軍人として現れる。有能だが平民出身、時代の変化に鈍感な貴族達に挑発的な発言をしたかと思えば、病の公爵夫人に的確な応急手当をして命を救ったりする。
そんな、自分と違う世界の、しかも超有能で格好いい男がいきなり現れたらそりゃ惚れるわな。
アンリエッタもただの深窓の令嬢ではない。ルソーを読み、新しい時代に目を向け広い世界に憧れる女性。
初めて二人きりになったときの会話がいい。
ルソーの『人間不平等論』を読んだと言うアンリエッタ。感想を問うヴィットリオに「私たち支配階級にとっては理解しがたい部分もありますが、認めなければならないことだと思います」と彼女は答える(台詞はうろ覚えですが)。
ただの憧れでも夢見がちな若い娘のロマンチシズムでもなく、社会と自分の置かれた立場を知っていて、なお新しい時代に目を向ける女性。
そんな気品と才知と意志を兼ね備えた女性なら、花も実もある青年が惹かれても当然。
最初の場面での、この二人のキャラ立てはすごいと思う。

出会いで恋に落ちたことを納得させられれば、後は王道のラブロマンス一直線。身分の差、周囲が認める婚約者の存在、親の反対。ヴィットリオは僻地への左遷が決まり引き裂かれる二人。
ここで、ひとり自室で涙するアンリエッタの元に、ヴィットリオが忍んで来る。嵐の夜窓を叩く音、はっとして駆け寄るとあの人が。抱き合う二人の後ろではカーテンが風にはためいている。ああ王道。
身分など関係なく愛し合える世の中にすると誓うヴィットリオ、その日まで待ちつづけると言うアンリエッタ。名残を惜しみつつ立ち去ろうとするヴィットリオを、アンリエッタは寝台の傍らに立ち潤んだ瞳で見つめる。
ヴィットリオはマントを脱ぎ捨てて二人は抱擁したまま寝台へ。そして暗転。うわあ王道。

統一後も支配者が変わっただけ、南のパレルモは北の支配を受け貧しくなるばかり。貴族と平民の対立は激しくなり、ヴィットリオの友人の命は失われアンリエッタの母は心労の末に息を引き取る。
アンリエッタは母亡き今長女として責任を果たすためヴィットリオとの別れを決意、二人は身を切られる思いで互いに別れを告げる。ヴィットリオの母もやはり貴族との実らぬ恋の末に彼を産んだが、待ちつづけることに疲れ果て狂気のうちに海に身を投げた。母を思いアンリエッタを思うヴィットリオの慟哭。何て王道。

ところが。
運命は急転直下。母の恋人、彼の父はドンブイユ公爵だったのだ。ヴィットリオはドンブイユ公爵家の人間として迎え入れられる。アンリエッタの父、カヴァーレ公爵も初めからヴィットリオの人間としての魅力は認めていたので貴族の一員となったヴィットリオに何の障害もない。二人は結ばれ、めでたしめでたし。
……お、王道、なんだよね?

正直。
公爵に「君を当家の人間として迎えよう」と言われたヴィットリオが、いつ「そんな問題じゃない!」と言い出すか固唾を飲んで見守っていました。そしたら違った。
なまじ、その前の、ヴィットリオの仲間達の反乱とその死が重くて。縦糸であるラブストーリーよりも、背景である社会問題、身分差別や貧富の差が重かったので、主人公ひとり貴族になってめでたしめでたしのシンデレラストーリーで終わるのか!?と拍子抜け。
でもその後にヴィットリオのお披露目を受けた貴族達が「平民の女の息子を貴族として迎えるなんて!」と非難してくれたおかげでやや救われました。そうか、これだけのことでさえ高いハードルだったんだ、貴族と平民の間を埋める大きな一歩なんだと納得できた。若い頃に貫けなかった身分を越えた愛をようやく取り戻したドンブイユ公爵と、「母の祈りは届いた!」と感極まって言うヴィットリオが抱き合う父子の再会に、素直に良かったなあと思えた。

まあ、その分、何十年越しの思いを叶えたドンブイユ公爵に最後見せ場を持っていかれちゃう感はありましたが。反対する貴族達に「これからの新しい時代、我々は滅び行く階級だろう。けれど、だからこそ海に沈む落陽のように最後の輝きを残そう」みたいなことを舞台中央で堂々と言うもんだから、しかもそれが格好いいもんだから。全部持っていかれる。またドンブイユの萬さん、格好いいし(笑)。
ここはヴィットリオも「これから身分など関係なく幸せになれる世の中を築いていく」くらいの大見得を切ってもらった方が、ヒーローとして決まると思うんですが。
でも、落陽たる大貴族が宣言し、将来を担う愛し合う若者達がそれを知らぬげに踊る、と言う終わり方は、歴史ロマンとして美しいのはわかります。それがやりたかったのかなあ。

と言う訳で、最後ちょっと釈然としないところはありますが、いい話でした。
イタリア統一直後の混乱した時代、身分の差に翻弄される恋人たち、ヴィットリオとアンリエッタ。
第二次世界大戦下のユダヤ人迫害に負けず共に生きようとする、その子孫ヴィットリオ・Fと恋人ジュディッタ。
そして、結局は結ばれなかったドンブイユ公爵と平民の娘フェリーチタ。しかし二人の間の息子ヴィットリオはついに父と巡り会い、彼らの愛もある意味結実の時を迎える。
三者三様に愛を貫く、愛の勝利。

いい話じゃないですか。
……うっかり、ヴィットリオが野心と貴族に捨てられた母の復讐のために貴族の娘をモノにしたかったように見えてしまう瞬間があったのは、私の心が汚れているからですよね。公爵家の跡取り娘上等、落としてやるぜ!って見えたのは。
いや、本当に正直なところを言うと、最初はそうやって近づいたのにやがて「それなのに真実貴方を愛してしまった!」って展開の方が、春野さんには似合っているような気もしなくもないんですが。ちょっと悪い男入っていた方が。
景子先生は破綻のない魅力的な話と誰がやっても魅力的に見えるキャラクタを作るけれど、あてがきはあまりしない人なのかなあ、と今回また思いました。

でも、トータルで言えば、文句無しのラブストーリーです。
次回上演する愛愛歌いまくる一本モノ大作より、100万倍も出来がいいですから、宝塚初心者を誘うなら皆様是非今年のうちに。

コメント

お気に入り日記の更新

日記内を検索