本日2回見ました。初日と9/11と、全部で4回。

ジプシー軍団では和涼華くんに釘付けです。
何ですかあの仔犬のような美少年は。
登場シーンでは、鍛冶の出来をパリアに見せて褒めてもらってははしゃぎ、うっかり金鎚で手を叩いて痛ててとなってまわりに呆れた顔をされたり、マンリーコが回復したときは喜んで膝立ちでママにしがみつき、ついでに甘えた顔で見上げたり。大きなお兄ちゃんたちに小突かれて唇を尖らせてみたり。マンリーコとパリアのことは尊敬しているけれど、他の皆に子供扱いされるのは嫌みたいですな。
修道院では抱き合うマンリーコとレオノーラにえへへーと言う笑顔を見せ、先に逃げる二人を見送ってばいばーいと手を振り、兵士にちょっかいを出しては振り払われてむくれたり。
年齢設定いくつですかこの子(笑)。

処刑のときも。しりもちをついて怯えた目で兵士たちを見上げたり、膝立ちでちょこまかと逃げ回ったり。
最後、修道女たちに助けを求めるように近づこうとするんだよね。愛嬌あるやんちゃ坊主だから、下男として入り込んだときには可愛がられたりもしたんだろうね。でも引きずって行かれて最後に叫ぶ言葉が「かあさーん!」って……。
反則だろそりゃ(泣)。

ちなみにここ「若い順に行け」と言われたのに七帆くんが最後なのは、きっと最後に彼に歌わせたかったからだと思います。その絶唱も含め、いつの間にそんなに男前になったんだ七帆ひかる。

……やっぱり新公見たかったな。東宝の新公行こうかな(ちょっと待て落ち着け)。

とか浮かれたこと書いてますが、実際はジプシーの処刑の辺りからラストまで泣きっぱなしです。ダブルヘッダーして泣きすぎて消耗した。
二回目に見たときに、序曲でジプシーのテーマと、マンリーコの恋歌が流れた時点で泣きそうになりました。
そのとき気づいた。この作品はダイレクトに感情を揺さぶるんだ。そりゃ計算式はあるだろうけど、でも理屈よりも感情を直接動かしてくる。それで振り回されるんだから、疲れるわな。
でもそういうものは貴重なので、キムシンにはこの芸風と言うかテクニックは大事にしてもらいたいです。

前楽は一際テンションがすごかった。処刑の後のジプシー娘たちのコーラスがまた物凄くて。演ってる方も泣きながら歌ってるし。

ガイチさんのルーナ伯爵には、初見とは違った印象を持ちました。
何だか、可哀想に見えてきた。
三ヶ月の歌も、最初聞いたときは、孤独と言っていても別に「だから?」という感じだったし、本人も孤独を選ばれし者の宿命くらいに思って当然のこととして受け止めているだろう、くらいの天上天下唯我独尊な感じだった。それがかえって可哀想と見えなくもなかったけど。
でも、後半見たときは、悲哀が感じられた。諦めて甘受してはいるけれど、それでも本当は孤独以外のものを求めているのだ、と言う感じが。
そうしたら、最後の「お前の弟だ」の愕然とした表情につながった。
いやマジでこの人可哀想だ。

ガイチさんに対しては『エリザベート』フランツでも同じようなこと(初日は感情が見えないが後半は伝わってくる)を感じたのでそういう人なのかもしれない。それとも私の感覚との相性問題なのかもしれない。

可哀想と言えば。一見悪役として描かれているキリスト教徒たちもまた、可哀想なんだと思う。
だって、この人たち実は恐いんだよね?
火焙りにしたジプシー女の魂が得体の知れない夜の鳥になって呪っていると思っているし、「殺さなければこちらが殺される」何て台詞もあるし。
自分たちと違う生き方をするジプシーたちが恐いんだ。同じ神を戴かない人間が理解できないから、訳がわからないと思うから、呪いをかける能力があるとか勝手に恐れて、過剰防衛しちゃうんだ。

ジプシーたちは違う。「ジーザスは嫌いじゃない」というテーマ曲が言葉で語っているけれど、それ以前にマンリーコの受け入れられ方が明確に示している。どう見ても自分たちと人種が違う見かけの子供を恐れも差別もせず受け入れる集団。幼なじみだから、仲間だもんな、と。

でも、伯爵や宮廷の人々や、修道女たちは。今回処刑したジプシーに対してもまた呪いを恐れるだろう。恐れるあまり、ジプシーを見たらまた遠ざけるか、関わったら殺そうとするだろう。
恐怖と迫害の連鎖。
二十年経っても、二百年経っても、二千年経っても変わらない。

個人の復讐だってそうだ。アズチューナの復讐は決して彼女を幸せにしない。だけど、母の恨みを背負った彼女は、その恨みの連鎖を断てなかった。

絶望的な連鎖。
実際、世の中ってそんなものかもしれない。

でも、だから、救いが要る。
断ち切ることのできない連鎖から、ひとときでも解放されるような。

例えば「自分が国を治めている間は決して戦をしてはならない」と美しく気高い為政者が宣言するような。この命令の空しさは承知しています、と言われても、そのとおりだとわかっても、戦士たちが武器を置く姿は、つかの間の希望、たまゆらの救いだ。

『炎にくちづけを』においては、救いはもっと抽象的なかたちであらわされる。
火刑台上の美しい青年。仲間も、愛する人も失い。愛する人を傷つけた痛みと、彼自身は知らないが愛する母親に裏切られている痛みを受け入れて、彼は全てのものへの許しを歌う。全ての憎しみ、全ての恨みへの許しを。
そして、カタストロフの後。
白い翼が彼を抱き取る。彼は静かな目で私たちを見る。
ジプシーのテーマ「ジーザスは嫌いじゃない」とマンリーコとレオノーラの歌「あなたが生きている」の旋律が響く。自由と寛容、そして愛。人間の持つ美しいものの歌。
それは、その光景は救いだ。
ルーナ伯爵に代表されるキリスト教徒たちの狭量と憎しみも、アズチューナの妄執と狂気も、そしてそれが巡り巡って彼らに自身にもたらした絶望も、消えることはないだろう。
それでも、今この瞬間の美しさと静謐さは、救いだ。

世界は絶望とたまゆらの救いから成り立っている。普段は意識していないけれど。意識しないようにしているけれど。
だから人は、物語を求めるのだと思う。わかりやすく提示された救いの形として。
そして『炎にくちづけを』に込められた絶望と救いは、私の感情をダイレクトに刺激するのだ。

コメント

お気に入り日記の更新

日記内を検索