赤を歌う男。(博多座『マラケシュ−紅の墓標』)
2005年8月21日 宝塚真っ赤な血のいろ。
鋼の焼け爛れたいろ。
大地が悲鳴をあげていた。
幕が開くと、舞台ぎりぎりまで赤茶けた街の外壁が迫っている。
アーチの影から現れる一人の男。黒いスーツに深緑のストール。
その手には、赤い薔薇。
男は辺りを見渡す。見ている私たちをねめつけるように。それとも何も見てはいないかのように。
うっとりと薔薇に顔を寄せ、歌いだす。
血、焼け爛れた鋼、夕焼け。
赤の奔流。果てしなくつながる赤のイメージの連鎖。
目蓋の裏が染まる。赤、紅、緋、朱。砂漠、煉瓦、赤銅、暁、晩景。
マラケシュ。
暗黒の大陸に咲く、赤い薔薇。
この導入で掴まれました。心臓を鷲掴み。
博多版『マラケシュ』に。そして、ギュンターに。
赤を歌うギュンターの旋律は、イズメルとアマンが歌っていたものとほぼ同じだ。
世界へと導く、導入の歌。
しかし、その色は全く違う。
ムラの『マラケシュ』は詠唱から始まった。遠く低く響く詠唱。
そして現世と異界との狭間を渡るベドウィン、イズメルとアマンの歌。それは砂漠の夜空に吹く風だった。
しかしギュンターの歌は、禍々しい赤だ。
歌が終ると、舞台中央のせりの上では様々な人々が行き交う。何もかも行き詰ってマラケシュへ向かうイヴェットとソニア。測量隊として旅立つクリフォードと、見送るオリガ。その伯母ナターリアと使用人セルゲイ。
その間、ギュンターはゆっくりと歩いている。手にした薔薇を弄びながら。彼らのドラマを知らぬげに、しかし時折にやりと笑ったり、また次の瞬間に世の中の全てに関心が無いような顔になり。
そして時折、客席に目を向ける。
眼が離せない。
舞台中央で繰り広げられる物語を背景に、台詞のやり取りをBGMに、私はギュンターから目が離せなかった。
何なのこの人。
そして、それなのに。この禍々しくも美しい男は、アマンとの二重唱もするのだ。イズメルの歌っていたパートを。誰もが信じた約束の地、と。
博多座『マラケシュ』の閉塞感は、この幕開きのためでもあるような気がする。
水先案内人は、悪夢のように赤を歌う男なのだから。
ギュンターは、その後もずっといる。人々の営みをあざ笑うように。むしろ、蛇以上にこの世ならざる存在のように。
いや、市場では女の子にまとわりつかれていたり、実在の人間なんだけどね。いかにも汚らわしいと言いたげに振り払ったり突き飛ばしたりしているのがツボ。
そんなギュンターだが、パリの回想シーンからは違う。
普通のイっちゃった人間になる。「普通のイっちゃった人間」と言うのも変な表現だが、異常だけれどあくまでも人間、超常的な存在ではない。
蘭寿ギュンターは、イヴェットに惹かれているのかも?と一時思ったけれど、愛音ギュンターはそんな面はかけらも無い(だから逆説的に、プロローグでソニアがイヴェットに「よっぽどあなたのことが好きなのね」等と言うんだろう)。
パリの場面では、薔薇を奪う機会があるのに手にしない蘭寿ギュンターと違い、愛音ギュンターはその機会が無いため手にできなかっただけだ。
蘭寿ギュンターが壊れたのは、薔薇を、いやイヴェットを巡って争う人々の愚かしさを見たとき。
しかし愛音ギュンターが壊れたのは、己の手が血に染まったとき。イヴェットへの独占欲が暴走して死んだブノワを嘲笑い、戯れにその手を掴んだとき、彼の手もまた血に染まった。
何故かはわからない。しかし、血の赤が彼を壊した。
説明されてしまえば彼も普通の人間。イヴェットを追い詰めるときも、リュドヴィークと対決するときも。
イヴェットを自殺に追い込み、彼はリュドヴィークにナイフを向ける。高笑いし、ナイフを自らの掌に這わせ、その手を頬に這わせる。
掌の赤い血。あの日と同じように。
この、ギュンターが途中から普通の人間になってしまうのがどうも腑に落ちないんですけどね(笑)。それはムラ版からずっと。
まあ、うん、でもそうなんだから、そうなんだろう。
そこも含めて眼が離せない存在です、ギュンター。おまけにみわっちが耽美にイっちゃってるので、余計に。
そしてそんな彼が可哀想にすら見えてしまう。この世を超越した存在と見えた彼も、結局は得られないものを追い求める者であることがわかってしまうと。
***
緑野さんに思考過多と書かれてしまった(笑)。いやそのとおりなんだけど。
そうか、普通の人は感情を理屈で説明しようとしないのか。と言うか両立しないのか。
それを両立させようとしてしまうのは、私が人間としていびつな証拠だろう。
普通の人はそんなことをしないのは、感情だけで充足できるからだろう。
自分の感情を信じられない。理屈の裏付けが無ければ。
つまり、自信がない。
「自信がないんです」
オリガにそういう台詞がある。今まで流されて生きてきたから、自信がない、と。
最初から、何となくひっかかるシーンだった。
オリガは続ける。
「あなたは、自分に自信がありますか?」
聞かれたリュドヴィークは答えず、逆に聞く。自分で何かを決めたことは一度も無いんですか、と。
何故、ひっかかるのか。
ここ、私は話のすりかえだと思っていた。
生きるのが不安で自信がないなんて、当たり前じゃん。それを、自信がないのは自分に特別な事情があるからで、いつか自信が持てると考えているあたりが、オリガの未成熟さなんだろう。だからリュドヴィークもまともに答えず、いなすように話をすりかえているんだろう。
そうか。
ひっかかるのは、その、私がすりかえだと思った「自分で何かを決めたこと」を軸に話が進むからた。山場であるパリの回想シーンがくるからなんだ。
と、思っていたのだけれど。
もしかしたら、普通の人はここをすりかえだとは思わないのかな?
リュドヴィークとオリガのやり取りは、言葉どおりに受け取るべきなのかな?
確かにその方が、最後オリガがクリフォードとやり直すのが納得できる。クリフォードが石の薔薇を持って生還して、オリガはクリフォードを「自分で選んだ(選びなおした)」のだから。それがオリガの再出発なのだから。
そして、リュドヴィークは。
博多座で、リュドヴィーク生存説も有りという気がしてきた。だってこのリュドヴィーク、成仏してないよね?
リュドヴィークファン、寿美礼様ファンに顰蹙を買うのは承知で白状すると。
この物語で、私が一番共感を持って見ていたのは、リュドヴィークだった。
だから、最後には彼は幸せになって欲しかった。幸せになる彼が見たかった。
だから、最後には彼は死んでいると思っていた。だってこの世の何処にも彼の幸せは無いのだから。
それは幸せと言うより、楽になるということかもしれないけれど。
実際、ムラで見たときは、リュドヴィークは死んだのだと見えた。空を見上げる表情や、最後の歌声に静謐さや安堵感、穏やかな諦念を感じた。
けれど、何故かここ博多座では。
最後の歌。まだ感情が暴れている、ように聞こえた。少なくとも私が見た3回、特に21日の2回は。
立ち尽くす姿にも諦念や穏やかさは感じられなくて。
リュドヴィークは、生きているのかもな。そしてまだ人の世に思いを残したまま、現世をあがいている。
彼の人生はまだ、終わっていない。
全くの主観ですが、そう感じました。
ちなみに、二番目に感情を入れて見ているキャラはギュンターかもしれません(笑)。思えば私、らんとむギュンターについても結構書いてたし。その時から「汚されたのは彼自身」とか言ってたし。
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