本日は観劇評でも、それどころか観劇感想でもありません。そういうものを求める方は読まれませんよう。
ただ、自己観察です。

と、断った上で。

『長崎』千秋楽、卯之助にオペラ上げました。

先週東宝初見で、出演者の演技が良くなったおかげで見やすくなったと感じたんですよ。8/7日記にも書きましたが。
で、14日前楽で、更にそれを確信。
伊佐次とおしまの演技が変わったのが大きい。どちらも失われた過去への哀惜とこうなってしまった現在へのやるせなさが、すごく身に沁みる。
伊佐次は、少年性を前面に出してきたのが大きいかと。同じわがままでも、横暴な男ではなく、駄々っ子のような少年性を持った男。
おしまちゃんは「お別れします」がひたすら切ない。あのしどころの無い役を、檀れい最後の舞台にふさわしい名場面にまで持ち上げてきた。
と、幕間に緑野さんとさんざん語り合ったのだが、卯之助も良くなったと言ったらあっさり否定された。いや、守るべきもの(伊佐次とおしま)が守るべきものに見えるようになったから、それを守るための行動が変でも許容できるようになっただけという面があるのは否めませんがね。

それが前楽。

そして千秋楽。
まあ、普通に見てました(幕前芝居で鈴木さんを注視したりはしましたが)。
でも、和泉屋の旦那に、出立すると言われた後の場面。

実は、私は初日、この場面は嫌いじゃなかった。と言うかむしろ好きだった。
だって、芝居でワタ檀ががっつり絡むのは、ここしかないんだもの。
「恋の逆恨みかい」と言われたワタさんの目に、傷ついた色を見るのが好きだった。
でも、そのためにオペラを上げていたのは最初の2回くらいだったけれど。
この芝居自体、卯之助と言う役自体を受け付けられなかったから。

だけど、千秋楽はおしまちゃんの熱演につられてオペラを上げた。最後だし。
そしたら、ワタさんの卯之助はやっぱり傷ついた顔をしていて。でも「そうかもしれねえな」とへへっと笑っていて。でもおしまちゃんはそれどころじゃないし、そんな卯之助の顔は見ていなくて。
なんだかせつないなあと。

その後、卯之助は伊佐次に、冗談めかして、あの世では「兄弟分にでも子分にでもなりてえよ」と言うのだけれど、伊佐次にはあっさりお断りだと言われて。

ああ、卯之助はおしまちゃんも伊佐次も大切に思っているのに、わかってもらえなくてかわいそうだなあと。
するっと、そんな感想が出てきてしまいました。

ええ、驚きましたよ自分でも。
まさかそんな風に感じる日が来るとは。
頭のどこかでは冷静な自分が「おいおい」と突っ込みを入れているのだけれど。それまでのあの場面もあの台詞もおかしいだろって。
でも、卯之助にシンクロしてしまった。

だから、最後伊佐次が死んだときも、ああ、卯之助は守ろうとしたものを全て失ってしまったんだなあ、かわいそうだなあ、と素直に思えて、改めて驚きました。
すげぇやられた。持っていかれた。

ありえない。(と今までの感想を読んだ人も思うだろう)
いや実は、白状してしまうと、ありえるかもしれないという気はしていた。
ワタさんの演技に、騙されてしまうかもしれないと。
で、もしそうなったら嫌だな、と。
だってこんな話なのに! こんなに間違ってるのに! それってすげー敗北感じゃないですか。
実際、前楽まではそんなことなかったし。見やすくはなってるけど、やっぱ歪んでるよな、って。
ああ、それなのに(笑)。

と言う訳で、勝ち負けで言うと負けた訳ですが、まあそれも有りかと。
だって、劇場には夢を見に行っている訳だしなあ。
騙してもらえるなら、それはそれでいいか。

あと、自分の心が持っていかれたという事実自体が面白かったりしました。
予想の範疇の方向ですごい力で押し流されることは、それほどはないけれど、まあ、ある。
でも、全然意志に反する方向に持っていかれることって、滅多に無い。
珍しい経験でした。面白かった。

かと言って、通えば良かった、また見たい、とは思いませんが。
これは多分、千秋楽マジックのせいでもあって、二度と同じものは見られないだろうという気がしているから。
でもまあ、『長崎』最後の記憶として、これが残るのは、悪くない。

しかし。
幕間に、緑野さんと話していたんだよね。
良くなった、役者の力ってすごい、と我々は思うけれど、これって他の人には伝わらないんだろうなあ、って。
最初にムラで見て、ひでー駄作壊れまくってる!と絶望して、それでもリピートして、また東宝で見た人にしかわからない感覚なんだろうなあと。元々気に入っていた人とも、東宝で1,2回見た人とも共有できない。

と、溜息をついていた訳ですが。
千秋楽のこれは、本当に私にしかわからないんだろうなあ(半笑)。

同じものを見ていても、誰一人として同じものが見えていない、と改めて思った楽日だったりしました。

あ、でも最初から「長崎良い!」って人には、最初からあれが見えていたんだろうか。それって幸せってことかもしれない(でも私はそんな幸せは欲しくない・笑)。それとも愛は盲目?

とにかく、やっぱり私はワタさんが好きなんだろうな。まあ「それほど」ではないにしても。
と再認識した千秋楽でした。

ついでに想像力で補完。伊佐次、卯之助、おしまの三人が揃うのは20年ぶりでも、それぞれはその間に会うこともあったんだろうと思います。でないと再会してもわからんだろう。昔惚れたっていうのもつじつまが合わない。
多分10年くらい前に、卯之助はおしまにプロポーズして、でもおしまは伊佐次を思っていて、そういうことならと卯之助は身を引いて。ところが伊佐次が凶状持ちで追われる身となり、あきらめて他の男に嫁げと親に言われたおしまは反抗して家を出たものの(後足で砂をかけるように)行くあても無く芸者に身を落とし。伊佐次はおしまを憎からず思っていたけれど、それほどまでに惚れられているとは思わず一人江戸を離れ。
そんな過去が、三人同時に顔を合わせることなく存在したんじゃないかと。
と、前楽と楽で一気につながりました。勝手に。
つーかやっとそういう想像を楽しめる境地になったってことだな

もひとつ『長崎』の話。しぃちゃんの館岡さんの役作りも変わった、と言ったのだけれど、これも緑野さんにはあっさり否定された。
でもサトリちゃんはわかってくれました。そりゃしぃ担だから当然。
が、どう変わったかは意見の一致を見たものの、その評価については合意できず。
「変わった」と思ったのは、何と言うか、人間臭さ。
ムラでは、いや東宝の前半も、館岡さんはただただ「正しい」人でした。でも東宝後半で見た館岡さんは、迷ったり焦ったり愚かしい面もあったり、とにかく人間らしい。
私はムラの絶対正義な館岡さんの方が好きなのだけれど、『長崎』と言う物語においては東宝の方がバランスがいいと思う。主人公は伊佐次や卯之助なのだから、館岡さんが正しすぎると収まりが悪くなる。
と思ったのだけれど、
サトリさんは、むしろ正しすぎる方が対比になって良いのでは?と言っていたような……おっと、こんなところまで記憶が怪しい。間違ってたら訂正してください、サトリさん。
とにかく、見方は色々あるなあ、難しいなあと。
いやそれ以前にしぃちゃんの役にこんなに意味を持たせている人自体少ないだろうけど(苦笑)。

本当に、みんな同じものを見ていても誰も同じものが見えていない、ってことで。

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