宙組初日観劇。
挨拶でたかこさんは「熱い宙組」と何度も言っていました。
すげー違和感がありましたが、あの芝居を観れば納得。宙組の温度を上げるか、やるなキムシン。

実際、熱い舞台でした。
幕開きからテンション高く、それが進行に伴ってどんどん熱を増していく。
出演者の、だけでなく、作品自体のテンション。
幕が下りてしばらく立ち上がれませんでした。
とてもとても力のあるものを見せられた感じ。これぞ舞台の醍醐味。

ただ、重すぎてリピートはきついかな。「一度宝塚を観てみたい」と無邪気にいう初心者に見せるのも躊躇われる。
キムシンの長所も短所も遺憾なく発揮されているので、嫌いな人は嫌いだろうなあ。

『炎にくちづけを』には相当期待していた。
原作にあたる『イル・トロヴァトーレ』は大好き。一番好きなオペラかもしれない。
そしてそのとんでもない設定から「宝塚でやればいいのに」とヅカにはまる前から思っていた。だって主人公は吟遊詩人で謎の騎士でジプシーで、おまけに失われた伯爵家の息子だよ?
それがキムシン作で、宝塚が誇るヴィジュアル系の宙組。
こりゃ期待するなって方が無理。

宝塚化にあたって、特に興味深かったのは3点。
1.内容の追加:テーマやストーリーに新機軸があるはず。
2.原作の補足:幕毎にストーリーが飛びまくっているので。
3.ラストの処理
以下、原作もあるし、ネタばれ気にせず感想。

冒頭に短い序曲があり、何やらオペラ風。
続いて、フェルランド(寿つかさ)と兵士たちとの掛け合いによる昔語り。マンリーコ(和央ようか)を待つレオノーラ(花總まり)、情熱的過ぎる恋の行方を案じるイネス(紫城るい)、レオノーラに横恋慕するルーナ伯爵(初風緑)と、オペラと同じように進んでいく。
が。一見似たような物語の中に、独自の要素が立ち現れる。
原作の主題である恋と復讐に続く、いや、それらをも内包する『炎にくちづけを』独自の主題。

キリスト教徒と、ジプシーたち。
多数を誇り正義を奉ずる体制派と、体制からはみ出した自由な少数派。

正直「キムシンまたやんちゃしてるよー」と思いました。
まあ、舞台は中世スペインだしジプシーに対して強圧的なキリスト教徒が出てきても有りだとは思うけれど、不快な人は不快だろう。私もちょっとやりすぎだと思った。それに、日本人がこういうステレオタイプな書き方でキリスト教を取り上げて、しかも大真面目であることに、青さと言うか子供っぽさを感じる。
今までのキムシン作品を見ていれば、キリスト教に物言いたいのではなく、自分以外の価値観を認めない集団の暴力対そこからはみ出した個人、が本当の主題なんだろうと思うけれど。

やりすぎ(苦笑)。
だけど、この『炎にくちづけを』において、キムシンが『イル・トロヴァトーレ』を現代化するにおいて、それは必要なことだったんだろう。

オペラとの大きな違いは、ジプシーたちの存在。
オペラでは物語の背景だった彼らが、実に生き生きと描かれている。
若頭のパリア(大和悠河)を筆頭に、遼河はるひ、悠未ひろ、十輝いりす、七帆ひかる、和涼華ら若手たち。そして長老のエーク(美郷真也)。
キリスト教徒の兵士たち修道女たちが、整然とし統制の取れた、ある意味顔のない集団であるからこそ、彼らの個性豊かな生命力が際立つ。
きらきらと、眩しいほどに。

正直、彼らが出てくる度に、泣けてきそうになった。
「ジーザスは嫌いじゃない」と明るく力強い歌を聴く度に。
だって、この世界で、彼らが無事に生きて行ける訳がないじゃないか。
修道女たちを騙くらかし伯爵を出し抜いて、マンリーコとレオノーラを逃がすジプシーたち。陽気で魅力的で、ちょっとワルだけど、仲間を大事にする気のいい奴ら。
彼らはわかっちゃいない。ただではすまないことを。慈悲をかけたのに裏切られたと怒る修道女たちや、面子を潰された伯爵たちの冷たい憎悪を。相手の奉ずる神を「嫌いじゃないぜ」と親しみを込めて笑う彼らには、わかりようもない。
最期、一人一人死んでいく彼ら。キリスト教徒たちは最後まで同情の欠片もない。それが、とても恐ろしい。
しかし、それでも、最期まで昂然と頭を上げて去っていく彼らの姿が、痛みでもあり、救いでもある。

で、ミーハーな話をすると。
タニちゃん、格好よかったなあ。兄貴分を好演。歌もキャラに合って良かった。魅力的だった。
他では、私はどうも和くんが目に付いてなりません。きらきらしてる。
あと七帆くん。ワイルドで男前な笑顔にびっくり。そんな顔もできるようになったんだ。へー。

マンリーコとレオノーラの恋物語は、ほぼ原作どおりに進む。
いや、その甘さ激しさは原作を越えている。宝塚の面目躍如。
マント一枚をまとっただけのレオノーラと、マンリーコのラブシーン、すごかった。こういうのがさまになるのを見ると、やっぱりタカハナっていいなあと思ってしまう……。

が、レオノーラにも「仕掛け」がある。
仕掛けと言うと語弊があるが『炎にくちづけを』のヒロインならではのオリジナルな部分。
終盤、囚われのマンリーコへの思いを歌う独白。
彼女が何故マンリーコとの愛に身を投じたのか、世間の常識から外れた生き方を選んだのか、一瞬にして明白になる。
恋と世界が交差する瞬間。個人と世界が対峙する瞬間。
すごかった。

一つ不満なのは、ルーナ伯爵の描かれ方。
いや、酷薄な美形でお貴族様、というキャラの立ち方は魅力的なんだけど。「特別な人間」としての存在感はすごいし。
高みから戦場の兵士たちを見下ろし、美しい旋律で孤独を歌う。孤独を嘆くでもなく、当然のこととしてただ歌う。その凄まじさ。
すげーキャラクターだと思う。

でも、このルーナだと「実はマンリーコが弟だった」と言うのが生きないんだよね。そんなことで衝撃を受けそうに見えないんだもの。
折角、先代伯爵が息子は生きていると言い遺した、と説明しているんだから、父の遺言を守ってずっと探していた、とか言えばいいのに。天上天下唯我独尊ルーナ伯の、ただひとつの「家族」への思い。
そうであればこそ、人間外のジプシーとして処刑される彼が実は伯爵家の息子だったというカタストロフィも生きると思うんだけど。
そこが不明瞭だから、アズチューナのドラマもいまいち影が薄い。テーマが原作とずれているから仕方ない面もあるけれど。

マンリーコは何も知らない。
己が何者かなど知らない。ただ、レオノーラを愛し、母を愛し。何故かルーナを殺せず。その場その場の思いに突き動かされて行動する。そのイノセンス。
原作においては、妄執に満ちた復讐劇の中心に。
そして『炎にくちづけを』においてはそれに加え、集団の冷たい狂気の中に。
その白いイノセンスがある。

ラスト、マンリーコは粗末な衣装で柱に括り付けられ、火刑に処せられる。
既にレオノーラを失い、彼はただ許しを歌う。全てに対する許しを。
炎が彼を包みもう取り返しがつかないその刹那、アズチューナが真実を告げる。あれはお前の弟だと。

原作はここで終る。見る者の心に慄然とした思いを残して。
でも、宝塚では変えてくると思った。

期待は、叶えられた。
光。青い空。白い翼。
物語を昇華し、見る者の心を救い上げる。
理屈はなく言葉もなく、ただその光景が。

マンリーコの姿は十字架のキリストのようで。
そのパラドックスさえも、救い。

オペラに力負けしない、力のある作品でした。
原作のファンにも、見てほしいと思います。

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