見えたとおりに(『マラケシュ・紅の墓標』)
2005年4月22日 宝塚そしてまた、花組を観ている。
本日は1F14列。5回目にして初のS席。今回持っている中で一番いい席(でも定価払ってない・笑)。
あんまり体調がよくなくて(今更花粉症がひどくなった。ヒノキ?それとも微熱が出たし風邪?)ぼーっと見ていたら、あー、もう全てこれでいいや、と言う心境になりました。
確かに前半は冗長で後半は飛躍しすぎで、それがわからないと言われる一因なのだろうけど、まあそれもいいや(博多では変わるかも、と思うと楽しみではありますが←行くのか)。
どー見ても一瞬たりともやり直せそうに見えない、リュドヴィークも。それでいい。
「あの日あのパリから全てが狂った」ストーカー、ギュンターも。それでいい。
世界にありのままに没入するのが心地よい。
ギュンターについては、ナナチャンネル(http://7ch.jugem.cc/)nanakoさんからメールいただきました。(うれしい!)
そうか、花担の方にとってはらんとむくんは陽気なキャラで、今回の不吉なストーカーは違和感があるのですね。
私は割とその点については気にならないんだけれども(ただギュンターと言うキャラを捕まえ損ねただけで)。むしろ、ギュンターがドイツ人なのはらんとむくんあてがきじゃないかと思ったりして。ほら、花組さんの中では骨太がっちり系なので、ゲルマン系って感じが(笑)。
さららんエルマーほどのやりすぎ感は感じないのですが、まあ、私の「やりすぎ」に対する尺度って、割と甘いみたいだからなあ。
舞台が近いと違うものが見えるもので。
「蛇」=としこさんに目を奪われました。
ほら、遠いとどうしてもオペラ使うじゃないですか。オサさんや樹里さんが出てくると、そっちを見てしまう。
でも、オペラを使わないと。後ろで踊る「蛇」の動きに目を奪われる。
くねらせる腕、そらせた手、うごめく指。
跳び、走る。
やっぱり主役だなあ。
もうひとつ。今日はウラジミール=まっつ氏を見ていました。
最後、クリフォードが生還した場面。
彼はずっと、オリガとクリフォードを見ている。
真顔で、どこか不安げに。
多分、今までオリガの側で見ていて、彼は色々と考えたのだと思う。
オリガの動機が、自分が言ったように愛でも、ナターリャが言ったように打算でもないことを。オリガが姿を消した夜、誰と会おうとしていたのか。
だから彼は二人を見守り、クリフォードがオリガの肩を抱いて歩み去ったのを見て、やっと(ほっとして)笑顔で恋人の手を取る。
一方、マクファーソンはそこまで案じてはいない風。年の功による経験と鈍感さと両方で。
とか深読みし始めたら通ってる証拠(笑)。
ところで。
緑野さんが4/19日記に色々お書きになっておられますが。
私が色々書いたんで満足しちゃってるって、それは、私が緑野さんの『睡れる月』語りを読んで自分の感想を書く気が失せたのと同じ現象ですか。いや、『睡れる月』のことはさんざん語り合ったから内容はかぶるし、もういいやという気分になっているのだけれど(笑)。
でも緑野さんはちゃんと感想書いてください。ファンの皆様に恨まれると嫌ですから(笑)。
ラスト、リュドヴィークは死んだと思ったのは、その方が私の好みだからだろう。
その方が救いがあるから。
あんな、厭世的なオーラとともに生まれてきたような人間、死によってしか楽になれそうもないから。
何度か見るうちに、生きていると言う見方もありか、と思っているけれど。
でも、その場合も、彼は半分あっちの人間になったのだろう、と思う。
あっち、と言うと曖昧だけれども、要するに異界。この世ならざるものを見るベドウィンたちと同じ。
それが、彼が本来属すべき世界だから。
己が人並みの愛や帰属すべきところを持たない人間であることを、気づいて、悟って、解き放たれる。
そうやって、ただ風に吹かれている。
そういう意味では。この世に属さないと言う意味では、死んでいるという理解と大差ない訳ですが。
つまりは多分、私はそれほど「痛い」ものが好きではないのだと思う。
それこそ『睡れる月』より『花のいそぎ』の方が好きであるように(実はそうなんですよ)。
切ないものは好きだけれど、救いも見たい。
『マラケシュ』については過去日記で歌詞を引用しているのだけれど、聞き間違いに気づくとあとからこっそり修正したりしている。
が。私の記憶よりも本当の歌詞の方がいちいち痛い内容だというのに恐れ入っている。
例えば「壊れかけた家」と記憶していたところは「壊された家」。
「手首に刻まれた」は「手首に刻んだ」。
いちいち鮮明で、痛い。
だから、オギーのつくる世界は、私の感覚よりもより痛く、救いがないのが正解かもしれない、とは思うのさ。正解があればの話だけど。
少し話はずれるけれど。痛いものが好きとかそれを表現できるって、それだけ人間が好きということなんだと思う。
まあ、ある程度の幅の解釈は許容してくれている作品ではあると思っています。
なので、見えたとおりに。
本日は1F14列。5回目にして初のS席。今回持っている中で一番いい席(でも定価払ってない・笑)。
あんまり体調がよくなくて(今更花粉症がひどくなった。ヒノキ?それとも微熱が出たし風邪?)ぼーっと見ていたら、あー、もう全てこれでいいや、と言う心境になりました。
確かに前半は冗長で後半は飛躍しすぎで、それがわからないと言われる一因なのだろうけど、まあそれもいいや(博多では変わるかも、と思うと楽しみではありますが←行くのか)。
どー見ても一瞬たりともやり直せそうに見えない、リュドヴィークも。それでいい。
「あの日あのパリから全てが狂った」ストーカー、ギュンターも。それでいい。
世界にありのままに没入するのが心地よい。
ギュンターについては、ナナチャンネル(http://7ch.jugem.cc/)nanakoさんからメールいただきました。(うれしい!)
そうか、花担の方にとってはらんとむくんは陽気なキャラで、今回の不吉なストーカーは違和感があるのですね。
私は割とその点については気にならないんだけれども(ただギュンターと言うキャラを捕まえ損ねただけで)。むしろ、ギュンターがドイツ人なのはらんとむくんあてがきじゃないかと思ったりして。ほら、花組さんの中では骨太がっちり系なので、ゲルマン系って感じが(笑)。
さららんエルマーほどのやりすぎ感は感じないのですが、まあ、私の「やりすぎ」に対する尺度って、割と甘いみたいだからなあ。
舞台が近いと違うものが見えるもので。
「蛇」=としこさんに目を奪われました。
ほら、遠いとどうしてもオペラ使うじゃないですか。オサさんや樹里さんが出てくると、そっちを見てしまう。
でも、オペラを使わないと。後ろで踊る「蛇」の動きに目を奪われる。
くねらせる腕、そらせた手、うごめく指。
跳び、走る。
やっぱり主役だなあ。
もうひとつ。今日はウラジミール=まっつ氏を見ていました。
最後、クリフォードが生還した場面。
彼はずっと、オリガとクリフォードを見ている。
真顔で、どこか不安げに。
多分、今までオリガの側で見ていて、彼は色々と考えたのだと思う。
オリガの動機が、自分が言ったように愛でも、ナターリャが言ったように打算でもないことを。オリガが姿を消した夜、誰と会おうとしていたのか。
だから彼は二人を見守り、クリフォードがオリガの肩を抱いて歩み去ったのを見て、やっと(ほっとして)笑顔で恋人の手を取る。
一方、マクファーソンはそこまで案じてはいない風。年の功による経験と鈍感さと両方で。
とか深読みし始めたら通ってる証拠(笑)。
ところで。
緑野さんが4/19日記に色々お書きになっておられますが。
私が色々書いたんで満足しちゃってるって、それは、私が緑野さんの『睡れる月』語りを読んで自分の感想を書く気が失せたのと同じ現象ですか。いや、『睡れる月』のことはさんざん語り合ったから内容はかぶるし、もういいやという気分になっているのだけれど(笑)。
でも緑野さんはちゃんと感想書いてください。ファンの皆様に恨まれると嫌ですから(笑)。
ラスト、リュドヴィークは死んだと思ったのは、その方が私の好みだからだろう。
その方が救いがあるから。
あんな、厭世的なオーラとともに生まれてきたような人間、死によってしか楽になれそうもないから。
何度か見るうちに、生きていると言う見方もありか、と思っているけれど。
でも、その場合も、彼は半分あっちの人間になったのだろう、と思う。
あっち、と言うと曖昧だけれども、要するに異界。この世ならざるものを見るベドウィンたちと同じ。
それが、彼が本来属すべき世界だから。
己が人並みの愛や帰属すべきところを持たない人間であることを、気づいて、悟って、解き放たれる。
そうやって、ただ風に吹かれている。
そういう意味では。この世に属さないと言う意味では、死んでいるという理解と大差ない訳ですが。
つまりは多分、私はそれほど「痛い」ものが好きではないのだと思う。
それこそ『睡れる月』より『花のいそぎ』の方が好きであるように(実はそうなんですよ)。
切ないものは好きだけれど、救いも見たい。
『マラケシュ』については過去日記で歌詞を引用しているのだけれど、聞き間違いに気づくとあとからこっそり修正したりしている。
が。私の記憶よりも本当の歌詞の方がいちいち痛い内容だというのに恐れ入っている。
例えば「壊れかけた家」と記憶していたところは「壊された家」。
「手首に刻まれた」は「手首に刻んだ」。
いちいち鮮明で、痛い。
だから、オギーのつくる世界は、私の感覚よりもより痛く、救いがないのが正解かもしれない、とは思うのさ。正解があればの話だけど。
少し話はずれるけれど。痛いものが好きとかそれを表現できるって、それだけ人間が好きということなんだと思う。
まあ、ある程度の幅の解釈は許容してくれている作品ではあると思っています。
なので、見えたとおりに。
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