我ながら何やってんだか・その2(「花舞う長安」@宝塚星組博多座公演)
2004年8月23日 宝塚博多座千秋楽見て参りました。
いや、何か休みが取れそうだったし、博多座に電話したらチケットあったもんで。
さて「花舞う長安」。
初日だから硬かったのかもなー、千秋楽はこなれてきて面白くなってるかも、と期待したのですが。
すみません私が愚かでした。
やはりリピートするにはきつい作品です。
絵面は美しいから、当初想定どおりショーとして作っていればよかったのかも。ストーリーのあるショーだったら、いけてたのかも。
でもこれ芝居だし。
ショーならいいのよね、で済ませずに、もうちょっと考えてみたい。(しつこい)
千秋楽前に、原作とされる井上靖の「楊貴妃伝」を読みました。
全然違うじゃん。ストーリーあるじゃん。(当然ですが。いや、もしかしたらエピソード集のような短編集のような伝記かと思ってたもんで)
これを原作にして「花舞う長安」が出来たと言うのは「楊貴妃伝」に失礼でしょう。(酒井氏はパンフで原作ではなく「参考にした」と言う言い方をしてますが)
「花舞う長安」と「楊貴妃伝」の大きな違いは、
1.玄宗が若い。少なくとも壮年である。(原作では老人)
2.楊貴妃は愛が全ての女性で、権力欲はない。(原作は楊貴妃が次第に権力を求めていく物語)
3.安禄山はクールでダークな野心家。(原作では肥満体のひょうきんものだが実はしたたかな男)
あと、それよりは細かいことですが、
4.原作の李林甫の役割(口に蜜あり腹に剣ありと言われた陰謀家)が安禄山と陳玄礼に振り分けられている。
5.楊国忠がいいひと。(原作では若く怜悧な野心家。己の才に溺れて墓穴を掘る)
1〜3は宝塚的にOKでしょう。
主役はかっこよくなきゃだし、ヒロインは愛に生きるべきだし、2番手もかっこよくなきゃ。そうでなきゃ困る。
問題は、これだけ換骨奪胎してなおかつ原作からエピソードを借りてくるのは難しいと言うこと。
原作では楊貴妃と玄宗の駆け引きは愛ではなく、権力のそれ。楊貴妃が嫉妬して玄宗を独占することは、楊貴妃の権力を確かに強大にすることにつながる。(例えば、「太真」と呼ばれることを拗ねたあとで妃扱い格上げになるとか)
その視点がないと、ただひたすらバカップルがいちゃついてるだけになっちゃうんだな。
玄宗が安禄山を「雑胡」と馬鹿にしたように呼ぶのも原作由来なんですね。舞台だけ見てるとプライド高そうな野心家にこんな扱いをして明らかに危ないじゃないか、と妙に思ったけど、原作の玄宗の安禄山への態度がこうでした。
と言う訳で、私ならこうする案。
玄宗が楊貴妃を無理矢理連れてくるところまではこのままで。女道士になるところは説明台詞だけでもよし。(清く正しく美しくは余計でしょう)
但し、呼び戻されてすぐ貴妃になるのではなく、原作の初めて寝所を共にする場面をここで持ってくる。楊貴妃が玄宗の強さ大きさに畏怖し、弱さ小ささを愛した場面。勿論、意味合いはこの玄宗と楊貴妃にあわせて変えて。
玄宗に望みを言えと言われ、戸惑ったように望みはないと答える玉環(まだ玄宗を愛してはいない)。逆に玄宗の望みを問う玉環。全て望みは叶えてしまったのでもう望みはない、強いて言えばいつまでも生きたい、と言いつつ、逆賊を誅さねば、蛮族を征さねばと言う玄宗。
そして寝所をともにした後、居もしない刺客に怯えて目を覚ます玄宗(ここは原作ほどみっともなくせず、高力士も出さない)。
王者の傲慢と孤独、その常人ならぬ存在感、振幅を目の当たりにした玉環は、玄宗を自分の運命として受け入れる。
細部に文句色々あるけど、その分はすっ飛ばしてどうしてもほしいのは、玄宗が楊貴妃を愛するようになる場面。並み居る女たちとは別物としてね。
だって、玄宗は楊貴妃を可愛がっているけど、愛してはいないし。(楊貴妃が拗ねても怒っても、可愛い可愛いとしか思ってない。常に真面目に取り合わない玄宗。魂のレベルで愛し合っていないで愛の詩劇と言われても)
そういうエピソードは原作に無いんですが(だって原作の玄宗はこの辺になると美しい楊貴妃に捨てられまいと縋るただのじじいなんだもの)皇甫惟明のエピソードを使いたい。
皇甫惟明が死罪となったことを知った楊貴妃は、高力士に「見ざる聞かざる話さざる」と言われ、それを受け入れる。原作の楊貴妃は権力と切り離せない存在だから、宮廷で生きていくために、とそれでOK。
でも舞台の楊貴妃は権力なんてどうでもいい可愛い女ですから。皇甫惟明を何故死なせたのか、玄宗にその悲しみをぶつける。
「あの男を好いていたのか」一瞬怒る玄宗。「いいえ、ただ悲しく、恐ろしゅうございます。あの方は花を愛でる優しい方でした。それに、二心なく陛下にお仕えしていましたのに」
玄宗は答える。
「そうかもしれぬ。何が正しいのか、私にはもうわかっておらぬ」
玄宗は権力と言う暗い空洞の中に取り残され、誰も信じられない自分をぽつりぽつり語る。安禄山、李林甫、陳玄礼らは自分を権勢を伸ばす道具としか見ていない。他の誰も同じこと。皇帝とはそのようなものとは承知している。だが、自分は疲れてしまったらしい。
楊貴妃は言う。
「いいえ、わたくしがおります」
私は陛下を愛しています。陛下が皇帝でも、そうでなくても。そんな皇帝の地位など捨ててしまえばよろしいのです、わたくしはどこまでもついていきます。
比翼連理の誓い。そして「愛にただよう睡蓮の花」のデュエットはここで。
こうすれば主観的には純愛、しかし世間から見れば政務を放棄して楊貴妃に溺れる皇帝になるじゃないですか。
しかし、これだとやっぱり楊国忠には悪役、と言うか楊一族専横の象徴になってもらわないと駄目ですね。それによって楊貴妃の無私の愛が引き立つと言うもので。
実は、原作読んで一番惹かれたのは楊国忠だったりしまして。彼を主人公に一本書いてほしいくらいで。
楊貴妃の味方になるように親族を宮廷へ次々送り込んだ高力士ですが、楊家の男たちはみんないまいち頼りない。ので、遠く蜀にいた遠縁の若者、楊鉦をスカウトしてくる。誇り高く怜悧な楊鉦は楊貴妃のコネもあり宰相に上り詰めるが、若さと賢しさが己の首を絞めることになり、ついに自軍の兵士たちに暗殺される。
田舎出の若者が運命の悪戯で野望を胸に成り上がり、しかし絶頂は短く破滅する話ですよ、いいじゃないですか!
安禄山の乱に逃げ延びるにあたって、誰の手助けもないまま一人政務を片付け、逃亡の手配に奔走する姿が泣けます。(いや、詳しい描写は何もないんだけど)
破滅が迫っているのに知ってか知らずか精一杯な姿を想像すると……ビジュアルはしぃちゃんで。
ああでもしぃちゃんのいいひと楊国忠も好きだ。最後の立ち回りの「国忠!」「陛下!」も好きだ。ストーリー的にそれじゃ弱いけど。
と無駄なことを悩む今日この頃。
あー、でも妄想再構築してちょっとすっきりしました(笑)。
いや、何か休みが取れそうだったし、博多座に電話したらチケットあったもんで。
さて「花舞う長安」。
初日だから硬かったのかもなー、千秋楽はこなれてきて面白くなってるかも、と期待したのですが。
すみません私が愚かでした。
やはりリピートするにはきつい作品です。
絵面は美しいから、当初想定どおりショーとして作っていればよかったのかも。ストーリーのあるショーだったら、いけてたのかも。
でもこれ芝居だし。
ショーならいいのよね、で済ませずに、もうちょっと考えてみたい。(しつこい)
千秋楽前に、原作とされる井上靖の「楊貴妃伝」を読みました。
全然違うじゃん。ストーリーあるじゃん。(当然ですが。いや、もしかしたらエピソード集のような短編集のような伝記かと思ってたもんで)
これを原作にして「花舞う長安」が出来たと言うのは「楊貴妃伝」に失礼でしょう。(酒井氏はパンフで原作ではなく「参考にした」と言う言い方をしてますが)
「花舞う長安」と「楊貴妃伝」の大きな違いは、
1.玄宗が若い。少なくとも壮年である。(原作では老人)
2.楊貴妃は愛が全ての女性で、権力欲はない。(原作は楊貴妃が次第に権力を求めていく物語)
3.安禄山はクールでダークな野心家。(原作では肥満体のひょうきんものだが実はしたたかな男)
あと、それよりは細かいことですが、
4.原作の李林甫の役割(口に蜜あり腹に剣ありと言われた陰謀家)が安禄山と陳玄礼に振り分けられている。
5.楊国忠がいいひと。(原作では若く怜悧な野心家。己の才に溺れて墓穴を掘る)
1〜3は宝塚的にOKでしょう。
主役はかっこよくなきゃだし、ヒロインは愛に生きるべきだし、2番手もかっこよくなきゃ。そうでなきゃ困る。
問題は、これだけ換骨奪胎してなおかつ原作からエピソードを借りてくるのは難しいと言うこと。
原作では楊貴妃と玄宗の駆け引きは愛ではなく、権力のそれ。楊貴妃が嫉妬して玄宗を独占することは、楊貴妃の権力を確かに強大にすることにつながる。(例えば、「太真」と呼ばれることを拗ねたあとで妃扱い格上げになるとか)
その視点がないと、ただひたすらバカップルがいちゃついてるだけになっちゃうんだな。
玄宗が安禄山を「雑胡」と馬鹿にしたように呼ぶのも原作由来なんですね。舞台だけ見てるとプライド高そうな野心家にこんな扱いをして明らかに危ないじゃないか、と妙に思ったけど、原作の玄宗の安禄山への態度がこうでした。
と言う訳で、私ならこうする案。
玄宗が楊貴妃を無理矢理連れてくるところまではこのままで。女道士になるところは説明台詞だけでもよし。(清く正しく美しくは余計でしょう)
但し、呼び戻されてすぐ貴妃になるのではなく、原作の初めて寝所を共にする場面をここで持ってくる。楊貴妃が玄宗の強さ大きさに畏怖し、弱さ小ささを愛した場面。勿論、意味合いはこの玄宗と楊貴妃にあわせて変えて。
玄宗に望みを言えと言われ、戸惑ったように望みはないと答える玉環(まだ玄宗を愛してはいない)。逆に玄宗の望みを問う玉環。全て望みは叶えてしまったのでもう望みはない、強いて言えばいつまでも生きたい、と言いつつ、逆賊を誅さねば、蛮族を征さねばと言う玄宗。
そして寝所をともにした後、居もしない刺客に怯えて目を覚ます玄宗(ここは原作ほどみっともなくせず、高力士も出さない)。
王者の傲慢と孤独、その常人ならぬ存在感、振幅を目の当たりにした玉環は、玄宗を自分の運命として受け入れる。
細部に文句色々あるけど、その分はすっ飛ばしてどうしてもほしいのは、玄宗が楊貴妃を愛するようになる場面。並み居る女たちとは別物としてね。
だって、玄宗は楊貴妃を可愛がっているけど、愛してはいないし。(楊貴妃が拗ねても怒っても、可愛い可愛いとしか思ってない。常に真面目に取り合わない玄宗。魂のレベルで愛し合っていないで愛の詩劇と言われても)
そういうエピソードは原作に無いんですが(だって原作の玄宗はこの辺になると美しい楊貴妃に捨てられまいと縋るただのじじいなんだもの)皇甫惟明のエピソードを使いたい。
皇甫惟明が死罪となったことを知った楊貴妃は、高力士に「見ざる聞かざる話さざる」と言われ、それを受け入れる。原作の楊貴妃は権力と切り離せない存在だから、宮廷で生きていくために、とそれでOK。
でも舞台の楊貴妃は権力なんてどうでもいい可愛い女ですから。皇甫惟明を何故死なせたのか、玄宗にその悲しみをぶつける。
「あの男を好いていたのか」一瞬怒る玄宗。「いいえ、ただ悲しく、恐ろしゅうございます。あの方は花を愛でる優しい方でした。それに、二心なく陛下にお仕えしていましたのに」
玄宗は答える。
「そうかもしれぬ。何が正しいのか、私にはもうわかっておらぬ」
玄宗は権力と言う暗い空洞の中に取り残され、誰も信じられない自分をぽつりぽつり語る。安禄山、李林甫、陳玄礼らは自分を権勢を伸ばす道具としか見ていない。他の誰も同じこと。皇帝とはそのようなものとは承知している。だが、自分は疲れてしまったらしい。
楊貴妃は言う。
「いいえ、わたくしがおります」
私は陛下を愛しています。陛下が皇帝でも、そうでなくても。そんな皇帝の地位など捨ててしまえばよろしいのです、わたくしはどこまでもついていきます。
比翼連理の誓い。そして「愛にただよう睡蓮の花」のデュエットはここで。
こうすれば主観的には純愛、しかし世間から見れば政務を放棄して楊貴妃に溺れる皇帝になるじゃないですか。
しかし、これだとやっぱり楊国忠には悪役、と言うか楊一族専横の象徴になってもらわないと駄目ですね。それによって楊貴妃の無私の愛が引き立つと言うもので。
実は、原作読んで一番惹かれたのは楊国忠だったりしまして。彼を主人公に一本書いてほしいくらいで。
楊貴妃の味方になるように親族を宮廷へ次々送り込んだ高力士ですが、楊家の男たちはみんないまいち頼りない。ので、遠く蜀にいた遠縁の若者、楊鉦をスカウトしてくる。誇り高く怜悧な楊鉦は楊貴妃のコネもあり宰相に上り詰めるが、若さと賢しさが己の首を絞めることになり、ついに自軍の兵士たちに暗殺される。
田舎出の若者が運命の悪戯で野望を胸に成り上がり、しかし絶頂は短く破滅する話ですよ、いいじゃないですか!
安禄山の乱に逃げ延びるにあたって、誰の手助けもないまま一人政務を片付け、逃亡の手配に奔走する姿が泣けます。(いや、詳しい描写は何もないんだけど)
破滅が迫っているのに知ってか知らずか精一杯な姿を想像すると……ビジュアルはしぃちゃんで。
ああでもしぃちゃんのいいひと楊国忠も好きだ。最後の立ち回りの「国忠!」「陛下!」も好きだ。ストーリー的にそれじゃ弱いけど。
と無駄なことを悩む今日この頃。
あー、でも妄想再構築してちょっとすっきりしました(笑)。
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